この映画は、砲弾が飛び交い炸裂する戦場で、論理哲学に関する草稿執筆に集中するヴィトゲンシュタインの姿から始まる。そして、物語の経過の各段階でマーティンとセルダムは人間の認識能力や認識の正否に関する論争が繰り広げられていく。論争のテーマは、人間が真実を認識できるか否かという問題だ。取っつきにくいというか、格調高いというか、何やら大学の哲学講義を映像化したかのごとくだ。
ところが、殺人事件の捜査をめぐる結末は、じつに卑俗というか下世話なものに終わってしまった。要するに、殺人事件という犯罪捜査に仮託しながら、現代哲学史をダイジェスト版風にさらってみたというのが実相かもしれない。あるいは、哲学の論争は、殺人事件の捜査をめぐる隠蔽工作者と探偵との対決というずい分に平板な物語を装飾するイルミネイションにすぎないのかもしれない。
とはいえそれでも、物語のなかにはいくつもの科学論や認識論における真理認識の方法や可能性をめぐる論争が織り込まれている。
結局のところ、社会科学や歴史学、あるい自然科学という人類の認識・思考活動は、結局、イデオロギーとしての存在拘束性を免れないということを言いたかったのかもしれない。人間が真理を認識することができるかという問いをめぐる論争史は、煎じつめれば、そういうことが核心にある。
学術というものが、一かたまりの「業界」をなし、それ自体固有の利害をもつ社会的活動であって、収益や報酬をもたらす人間の生業=商売であってみれば、それぞれに固有の利害や思惑、出世競争、業績競争、名誉・地位をめぐる利害対立などが絡みつくことは避けられない。そうなると、理論や認識をめぐって、そういう主観的要素を抱く人間たちが、どこまで真理を客観的かつ冷静に考察し認識できるか。そういう論争に絡むものだった。
社会科学や歴史学では、認識する側の政治的立場や価値観が認識過程に持ち込まれることは不可避的であるということは、もはや自明である。また、自己の立場を捨てて「ひたすらニュウトラルな視点」を打ち出す立場は、四方八方に媚を売り、論争の焦点や核心を避けようとするので、面白みのない平板な理論しか構築できないのも、事実であろう。社会科学や歴史学の論争は、価値観や立場にもとづくイデオロギー闘争となることが避けられないのだ。
ところが20世紀になると、自然科学にも認識者の立場=価値観の介入することが不可避であって、そもそも考察や分析の射程範囲に何を取り込むかという選択・選別じたいに認識者の主観が割り込み、観測環境や観測対象それ自体が認識者の立場によって限定されたり影響されるということも、当然のことと見なされるようになってきた。
自然科学的な効果や法則は、いつでもどこでも同じように作用し循環的に反復されるようなものではなく、特定の時空でだけ、つまり特殊な時間と空間においてのみ発現・妥当するものにすぎない、ということも自明の理となっている。
つまり、自然法則にも歴史があり、不可逆的な時間の進行やこれにともなう空間の特性の変化によって左右されること、それゆえまた、認識主体が時空のどこに位置づけられているかによって、生起する事象は異なってくることも、当たり前のこととなった。たとえば、この宇宙が誕生してからどれほど時間が経過したかによって、存在する物質は異なるし、重力の分布状況も変わるし、存在する銀河の数も位置も変化するのだ。
自然科学の法則のありようが認識主体の立場や存在状況によって左右されるということは、とりわけ宇宙論や素粒子論、量子論において顕著である。
宇宙では考察する時空の設定――いつ、どこでか――によって、認識対象の位相は相当に異なることになる。
宇宙には歴史があって、時間とともに空間の構造は変異してきた。存在する物質の質も量も変化し、作用する力のあり方も変化していく。まして、その宇宙の構造が素粒子論や量子論的な次元で説明されるときには、認識主体の存在いかんが観測される事象のありようそのものを決定的に変えてしまうことが明らかとなっている。
たとえば、恒星での核融合や物質の核分裂はこの宇宙が始まってからどれくらい時間が経過しているかによって、そのあり方は大きく異なる。また、シンクロトロン(粒子加速器)を利用した素粒子の衝突・融合・分裂の実験・観測は、まさに人間自身が時空の状態や素粒子の存在状態を人為的に変化させるものだ。人間=認識主体の介入そのものによって、宇宙や素粒子の運動法則や構造法則を局部的に再現するわけである。仮説や予測という人間の主観的作用が素粒子の生成・存在を導くのだ。
また、ニュウトン以来の古典物理学では、物質の質的存在と量的状態は具体的に特定しうるものとされていたが、現代の量子力学では、物質の存在は絶えざる変異のなかで確率的=量的に特定しうるだけで、具体的な質的存在状況については、まったく不確定であるという見方になる。
量子( quantum ⇒ quantity が語源)という名称そのものが、宇宙や物質の存在状態は質的側面( quality
)ではきわめて不確定であるという見方にもとづいている。物質の状態の量的側面を確率論的に把握することしかできないということだ。だから物質の質量や力の質点の存在――ニュウトン力学では宇宙の認識の確かな足場とされていた――については、もはやあきらめるしかない。確率上の可能性としての認識にとどまるのだ。たとえば、ハイゼンベルクの不確定性原理。
というよりも、質的側面については捨象=度外視することでしか、物質のより精確・厳密な認識は成り立たないのである。認識の正確性の高まりは、この「世界は確かではない」という結論を導き出した。
つまり、人間の側で主観的に設定した限られた角度でしか、認識は構成できないのである。真理とは相対的なものにすぎない。
映画でマーティンのセルダムが交わす論争は、こういう自然科学や認識論の現状を反映したものだった。
ましてそれぞれに価値判断の尺度や願望、政治的立場というような主観的要素を抱える人間は、そういう主観によって自ら認識に一面性や歪み、偏りを持ち込まざるをえない。それが、この映像物語の結論なのだろうか。