ところで、ヴィトゲンシュタインが高度に抽象化され、論理形式による推論だけで真偽が検証できる数学のほかは、人間は「この世界の真理」を正しく認識することはできない、と言い切った論題に関連して、数学と一般自然科学との関係・比較について考えてみよう。
物理学や化学では、ある法則に関する認識仮説が提起されても、やがて必ずその仮説の射程を超える事象が発見・観測される。そうなると、それまでの仮説はそっくりひっくり返されるか、修正されて、新たな観測結果を説明する仮説(論理)が構築されることになる。
たとえば天動説から地動説へのコペルニクス的転回、ニュウトン力学から相対論的物理学への発展、不確定性原理の優越、素粒子論の深化などを見れば、自然意識のパラダイムは次つぎに転換し組み換えられてきたのであって、それが科学の進歩発展の帰結だった。
つまりは、一般自然科学の法則や仮説は、人間による観測技術や作業仮説の進歩によって、必ず限界にぶつかり、その限界を超える新たな仮説が提起され検証されることになる。
科学史は、輝かしく登場した多くの仮説がやがて次々と限界にぶつかり、覆され、修正修復され、より包括的な新たな仮説の「部品」として位置づけなおされたり、完全に廃棄されたりしていく歴史でもある。科学史は「仮説の墓標」が並び立つ壮大な墓地だともいえる。
それまでの認識の正しさを疑い、批判し、ひっくり返し、より精密で包括的な仮説に置き換えていくことが、科学の本性なのである。
認識パラダイムのスクラップ&ビルドこそが、科学のダイナミズムそのものなのである。
ところが、数学の証明は、ひとたび確立されると、永遠に変わらない。というよりも、検証された真理として、次のより複雑な証明のための出発点=定理や公理として固定化されるのである。
なぜか。
数学の世界では、事物のあいだの構造や内容を徹底的に抽象化し、数的関連の論理という世界に置き換えてしまうからだ。
だから、ヴィトゲンシュタインは、およそ世界の事象の内容を含み込んだ哲学的推論においては、数学のような純粋かつ完全に確立した出発点から論理的に論証や説明を組み立てることができない、と結論づけたのだろう。
もとよりユークリッド幾何学の次元で成り立つピュタゴラスの定理は、非ユークリッド空間を構成する地球などの実在の天体上あるいは膨張する宇宙空間、強い重力場によって歪んだ空間では精密には成り立たないのではないかという批判はあるだろう。
しかし、その場合に桎梏となるのは、球面上での図形の形状とか3次元の各方向の距離の変移などだ。だから、球面の曲率や3次元各方向での変化率を微積分で求めて方程式にパラメータとして介在させれば、いちおう解析幾何学上の解は求められるので、数学上の定理は成り立つと見て差し支えないと思う。
そもそも、ピュタゴラスの定理などは、非ユークリッド空間の諸要素を捨象した高度に抽象的な――つまり、もはや意味を失う一歩手前まで具体的内容を削ぎ落とした――次元での推論でしかないというべきだろう。
一般科学や哲学での論証には、常に論証や説明のどこかに「現実の世界に関して所与とされた表象やイメイジ」が――先入観として――必ず紛れ込むことになる。それは避けられない。
その昔、カントが「理性批判」シリーズで、人間による世界の認識においては、不可避的にそれ自体として論証できない「先験的な認識方法=ゲシュタルト」が根底に置かれることになると喝破したことには、十分な根拠がある。
つまり、物自体( Ding an sich, Ding selbst )は、人間が先験的に(論証抜きに)確立した方法とは異なる次元にとどまり続け、人間は仕方なく物自体の一定の属性をゲシュタルトの鋳型に流し込んで「認識したことにする」という約束事によって諸科学を成り立たせるしかない、というのである。