物語では、殺人と思しき事件が連続して、調査すべき条件やら要素が複雑化し拡大するにしたがって、事実の追求への試みは混迷に陥っていく。考慮すべき要素が増加し、容疑者や動機の特定がますます困難になっていく。
というのも、警察とマーティンの犯罪捜査を混乱に誘導しようとしているのは、セルダム教授だからだ。
■セルダムの誘導■
セルダム教授に知能の優劣をめぐって挑戦を挑もうとする誰かが連続殺人を企図している。殺人の動機や目的、犯人像を解明できるものならしてみろと挑戦している。ジュリア・イーグルトン殺害は、そういう犯人が引き起こした第1番目の事件だ。
どういう理由かはわからないが、セルダム教授は、事件をそのように見せかける粉飾をしようとしていた。
被害者発見後、セルダムとマーティンは地元警察による尋問を受けた。
2人はジュリアの遺体を発見したときの様子を説明した。
マーティンは最初、ジュリアは老衰による呼吸障害で死亡したのではないかと判断した。ところが、セルダム教授は、ジュリアの顔には圧迫された跡があり、鼻の骨が折れているため鼻血が出ている事実を指摘し、誰かがジュリアを窒息死させようと枕を顔に押しつけたはずだ、と指摘した。
警察は、そこまで細かな判断ができる教授を疑い、問い詰めた。なぜ、殺人と一目で判断できたのか、と。
「じつは、直前にこの事件の犯人と思しき人物から「殺人予告」ともいうべきメモ――「挑戦状」――を受け取ったのだ」とセルダムは答えた。
「けれども、ジュリアの家に行く途中でゴミかごに捨ててしまったので、メモは残っていない」とも。
とはいえ、覚書の中身は記憶しているから、再現して書くことができると述べて、メモ用紙に「○」記号を書いた。
「これは、何らかの数列、すなわち一定の秩序をもって連続進行する記号の列の最初のものなのだ」と説明した。
「だから、これは連続する事件の始まりにすぎない、と見るべきだ」というのだ。
こうして教授は、ジュリア殺害事件をそれ自体(単体)として考察・調査する立場を放棄させ、連続する殺人事件という集合のなかに事件を組み込んでしまうことによって、犯人像、動機などの推理・特定を不可能にしてしまったわけだ。
つまり、事件を考察する文脈を、本来の文脈から抜き取って、別の虚構の文脈に置き換えてしまったのだ。
ここでは、事象を一定の数論的秩序(数列)という文脈のなかに位置づけて分析し、真理や法則を把握する方法論の功罪をあげつらっているのかもしれない。
人は、名誉や功利のために、物事の存在価値や意味を増殖・装飾できるように、事件を大きな文脈的連関のなかに位置づけようとしたがる。事件を単体で分析するよりも、その方がはるかに有意義で真なる認識に近づけるような気がするから。私も耳が痛い。
そのような方法態度には、事件や事象の本来の連関や意味よりも、自分たちにとっての意味連関の方が重要だという価値判断――先入見――が絡みついている。
これは、犯罪小説を書くときのプロットメイキング(筋立て)の方法だ。単純な事件の真相をまず設定しておいて、読者を複雑な迷路の文脈に誘い込むためにさまざまな付随的な出来事や枝葉末節の事柄を考え出し、事件の本体の周囲に並べて物語に肉付けしていく。
私自身は中学生時代に遊びで「推理小説」を書いたことがあるだけで、ほかには趣味でも仕事でも小説を書いたことはない。だから、犯罪小説家がどのようにプロットを設定していくかについては、まるきり素人だ。
けれども、犯罪小説は好きなのでよく読む。読んでから、小説全体の論理構成を考えてみると、上記の骨格的な方法論が見えてくる。
とはいえ、現代世界では、こういう方法だけで犯罪小説を書いても評価されないし、読まれもしないだろう。現代の社会問題やら世相、現代人が抱える苦悩などを表現する手段として犯罪小説は今でも命脈を保っているのだ。
企業経営環境の変化とか、犯罪を捜査する警察組織の硬直化・官僚主義化とか……そういう現代社会の問題、そういう環境で生きる人びとについて描く手法として、犯罪とその捜査をめぐる経過の物語を利用しているのだ。