要するに、人間の認識の内容と形式は、客観的世界の「物自体」が人間の主観・精神の側に――多かれ少なかれ独特の歪みや転倒をともないながら――写し取られた写像にすぎないということだ。
これは、マルクスの「反映論」、人間の意識や観念は物質世界の主観への反映であるという見方、の基礎となった。
とはいえ、マルクスではヘーゲルの「シニカルな楽天主義」も受け継がれている。
人間の認識は、客観的世界の後を、こけつまろびつ、すがりつくように追いかけ、よろめき傷つきながら、それでも絶えず修復され再構築されて、事象をより深く広く認識し続けていくではないか、と。つまり、客観的世界に認識は接近し続けているのだ、と。
今風の表現を使えば、人間の認識は客観的世界のシミュレイションにすぎないが、そのシミュレイションはどんどん正確化・精緻化し、客観的世界との差はどんどん縮まっていくのだ、ということになる。
こうして、過去からの死屍累々の仮説の墓標の長い列は、ともかくも、人類はそれ以前の認識の限界を知覚し論証し、より包括的な仮説の体系を構築してきたことの証しでもあるではないか、と。
だが、数学的世界の証明にも、非ユークリッド空間を想定した、物理学に近いような認識の前提条件=次元の壁という限界が立ちはだかることもある。動的な非ユークリッド空間を想定した解析幾何学は、数学者が手がけているとはいえ、具体的な内容が縦横に盛り込まれていて、もはや数学というよりも物理学に近い。
ところで、『オックスフォード連続殺人』の物語では、マーティンらの探索のなかで、古代の秘密結社としての「ピュタゴラス教団」についての話題が登場する。心身障害者の臓器移植などをおこなうような非人道的な陰謀集団のように描かれている。だが、それは古代からあった教団への誹謗中傷である。
ピュタゴラス教団は、会員が証明した数学定理や知識を外部に公開することを厳しく禁じていて、教団の研究成果を完全な秘密にしていた。そのため、外部の人びとからは疑われ、うとまれることが多かった。とりわけ権力者たちは、権威に箔付けしたり、知識を富や権力の獲得に利用しようとして、教団に知識や研究成果の引き渡しを迫った。
けれども、教団側はあくまでも秘密主義を貫き、権力者たちにおもねらなかった。
というよりも、飛び抜けた知性と業績を認められなければ教団に入れなかったので、会員たちは、周囲の人びとから見れば鼻持ちならないエリート意識や優越感を抱いていた。数学知識に関しては、一般民衆や権力者をひどく見下していたようだ。
そのため、権力者たちは、教団を残酷な陰謀集団であるとか、秩序の破壊者とかいって避難して、政治的迫害の口実にした。軍をさし向けて焼き討ちしたり、追放したり。
こうして、教団は迫害や圧迫を逃れるために、何度も本拠をあちこちに移すことになった。
この作品で描かれる教団の異様さ残酷さは、そのような根拠のない誹謗中傷の1つのようだ。
当時の政治的支配者が、知識を引き渡さない教団を弾圧し迫害するための口実、「ためにする理由」の1つが、教団が非人道的な陰謀を企てているという噂を流布し、犯罪と刑罰をめぐる公文書に記録させたことが、こういう誤解の原因だという。
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