モンターグは当局の追及の手を逃れて、農村地帯まで逃げ延びた。樹林に囲まれた集落の入り口で、彼は「本の人びと」のリーダーに出合った。
リーダーはクラリスからの情報と、当局がテレヴィスクリーンで流す「反逆者の捜索と追及」をめぐる報道で、モンターグがこの村をめざして逃げてくるであろうことを予測していた。それで、村の入り口で、モンターグの到来を待ち構えていたのだ。
モンターグの体つきや人相(顔写真)などについての情報は、テレヴィがひっきりなしに伝えていたので、リーダーは難なくモンターグを見分けることができた。
「私が誰だか知っているのかい」とモンターグはリーダーに尋ねた。
「もちろん。君は今この辺ではすっかり有名な英雄だよ。何しろ、テレヴィでモンターグ追走・捕縛作戦を実況中継しているからね。まあ、君も見てごらんよ」とリーダーは答えた。
で、テレヴィを見ると、モンターグ追捕の報道はちょうどクライマックスにさしかかっていた。スクリーンでは、武装警察に追いつめられたモンターグが逃げ惑っていた。そこに機関銃を備えたヘリコプターが現れて、モンターグを居場所を捕捉して銃撃を浴びせていた。モンターグは多数の銃弾を浴びて絶命した。
この報道は、秩序に反逆する犯罪を完全に制圧する当局の能力や権威をプロパガンダするフィクションだったが、人びとには事実だとして報道されていた。この社会では、レジームと政府の権威を脅かすいかなる要素も存在を許されないのだ。
いや、そういう事実があることは、人びとの目からは全面的に排除されているのだ。そのためにこそ、書籍はすべて禁圧され、焼却されるのだ。
いずれにせよ、モンターグは公式上は死亡したのだから、もはや当局の追及を恐れる必要はなくなった。
さて、リーダーはモンターグに村を案内しながら、この村で暮らす人びとのことを説明した。「本の人びと」の生活と目的を。
この村の住民は、その本名ではなく(本名は捨てた)、書籍の題名で互いを呼び合い識別している。たとえば、「罪と罰」(ドストイェフスキー作)とか「デイヴィッド・カパーフィールド」(チャールズ・ディケンズ作)などとして。
住民たちは、自分の呼び名となっている書籍を完全に記憶していて、それを自分の頭脳に保存し続け、人びとに語り伝えることを使命としている。だが、手元に本を持ってはいない。完全に暗記するま作品を読みこなし、そののちその書籍を焼却してしまっているのだ。
現物として存在しない書籍について当局は追及・訴追することはできない。
彼らはこの村で当局の追及を逃れて平穏に過ごしながら、書籍の内容を完全に記憶してしまうと、やがて各地の都市などに新たな生活の地を求めて出発する。そこで人類の知的遺産や文化などに真摯な関心をいだく人びとに出会うと、記憶した書籍の内容を伝達し、より確実な人類文化の保存をめざすのだ。
現今の抑圧的な全体主義レジームが崩れ去るまで。そして、新たな自由な社会が回復したら、そのとき印刷物やそのほかの媒体に復刻して人類の知的遺産を復元するのだという。
この村の住民たちは、自分の記憶の正確さを保つために、絶えず書籍の内容を暗謡している。あるいは、これから覚えるための書籍を抱えて読みふけり、ときどき声に出して確かめている。
人生の終局を間近に迎えた老人は、記憶した書籍の内容を、つきっきりで少年に語り伝えている。やがて少年は覚えたての物語を老人の前で語り始め、記憶間違いや空隙を指摘してもらうようになる。
やがて、彼らはこの村を出て、世界各地に散開していくことになるのだ。
映画の物語は、そこで終わる。