ガンディ 目次
国民形成への苦難の道
見どころ
インド…錯綜した複合世界
「インド洋亜世界システム」
ブリテン東インド会社の進出
会社の支配から国家の植民地支配へ
南アフリカと英連邦
植民地帝国の解体への兆し
インドへの帰還
非暴力=不服従とサティヤガラ
茅屋で木綿を紡ぐ
インド独立への動き
されど断裂するインド
ガンディの苦悩と選択
独立と分裂
独立達成とガンディ暗殺
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現代世界の格差と差別の問題
国境と国籍性の障壁
マンデラの名もなき看守

インド…錯綜した複合世界

・・・そこには世界のあらゆる問題がつめ込まれている

  日本人のほとんどは、国家や国民について、世界のほかにないほどに単純で安易なイメイジを持っている。それでも、生活ができるような幸運に、この数百年間めぐまれてきたのだ。だが、これからはそうはいかないだろう。
  島国で、例外的に早期に「1つの天下」「1つのくに」という観念ができあがったからだろう。だが、その分、深刻な闘争や紛争をつうじて、苦難に満ちた国民形成、国家形成を体験した諸地域と比べて、国民や国家についての歴史的ないし社会史的、論理的に省察する機会を持つことはなかった。
  「ボーダーレス」という用語が飛び交う現在の世界で、ボーダー ――国境や国家・国籍・国民性――の壁の役割について問い直しが迫られている。私たち日本人は、この「置き忘れた問題」を深刻に見つめなければならないのかもしれない。
  とはいえ、国家や国民というものをあまり深刻に考えてこなかったその経験の欠如による柔軟さを生かして世界で生き延びていく方法を考えるのも手かもしれない。

■500以上の言語と3000の民族(部族)■
  インドは史料や史跡などで分かる限り、少なくとも5000年以上にわたる文明の歴史を持っている。
  現代インドでは、映画作品やテレヴィ作品で使用される言語が500以上もあるという。そして、民族や部族( ethnic group )は3000近くもあるという。しかも、カースト制によって一般民衆の内部に断裂が縦横に走っている。
  ヒンドゥー(その分派としての仏教)、イスラム、シーク、ジーナ、そのほか多数の宗教の慣習や戒律、組織が住民をこれまた政治的・文化的に分断している。
  多様性というか分断要因に満ちている広大な大陸国家なのだ。
  独立ののち70年間以上にわたって国家統合や国民形成が進展しても、なお断裂した社会構造になっているのだ。独立以前は、いったいどれほどの分断・断裂があったのか、見当もつかない。


  さて、私たちは「インド独立」という言い方をする。
  あたかも、1つの文明的ないしは文化的まとまりとしてのインドが昔からあって、17、18世紀からヨーロッパ列強による侵略や収奪にさらされ、やがてブリテン王国の植民地になった。そして、20世紀半ばに政治的・軍事的に独立し、国家を形成したというようなストーリーを思い描くかもしれない。
  まったくの間違いだ。かつてはムガール帝国などの政治体がインドの広い地域を名目上の版図としたこともあった。だが、支配や統合は多元的な社会の表層をなぞっただけで、無限の多様性が政治的にまとまることなく関連し合いながら並存していた。
  インドという「まとまり」は、ブリテンの植民地支配の帰結なのである。つまり、それらの諸地域が自発的・内発的に自らをまとめ上げたことはなく、植民地支配という外的要因によって強制的に結束されたにすぎない。
  アジアやアフリカにおいて植民地から独立した諸「国民」の多くは、ヨーロッパの植民地争奪戦と植民地支配が生み出した軍事的・政治的単位(境界線)を所与の前提として、政治的独立と国家形成を「達成」したのだ。
  したがって、多くの場合、内発的な統合要因(まとまり)は本来存在せず、むしろ分裂・分断要因を抱え込んだまま国家形成・国民形成が進められた。いや進展したというよりも、多くの場合、停滞したのだ。
  ブリテンの植民地支配の以前には、まとまった社会としてのインドは存在したことはなかった。

  だが、ムガール帝国があったではないか、と反論する人もいるかもしれない。
  しかし、ムガール皇帝は、今日のインド領土の北部を「外から=上から」支配しただけであって、皇帝の権力がインドにおよぶのは、ヨーロッパ人のインド洋進出にわずか半世紀ほど先立つにすぎなかった。
  現代の地理でいえば、アフガニスタンとパキスタンがムガール帝国の中心だった。だが、高度な文明と豊かな富の集積に惹きつけられて、皇帝の統治組織の本拠が北インドの一部に置かれたにすぎない。そして、イスラムの文明装置と宗教権力も目立つほどの規模で浸透し始めた。
  ムガール皇帝が、次いでその半世紀ほどあとでヨーロッパ人たちが、インド亜大陸にやって来た頃、インドははるか古代から続く多数の局地的政治体、たとえば領主圏(太守国)、公国、王国、民族、部族集団に分かれていた。皇帝の支配は、北部の一定地域に表層的な政治的・軍事的統合をもたらしたが、インドの太守や王たちの主権そのものを奪うことはできなかった。
  というのも、皇帝は自前の行政・徴税装置を持たなかった――持とうとも考えなかった。各地方の太守や領主の権力に完全に依存して、皇帝の権威は成り立っていた。そして各地方の権力もさらに小さな局地的な――そして互いに分立した――政治組織に頼っていた。
  ムガール皇帝は、太守や王たちの権力の独立を認めるのと引き換えに、皇帝への軍役奉仕――巨額の報酬を代償としていた――とか納税・貢納の義務を課しただけだった。皇帝は、そういう皇帝権力の相対的優位を確保するために、太守や王たちの同意をなとか取り付けて、彼らの局地的紛争を抑えるために遠征をおこなった。だが、膨大な軍事的出費をともない、皇帝の財政的基盤を掘り崩していった。
  外からインドを支配しようとした権力は、いかなるものであれ、やがて財政的・軍事的に疲弊して衰滅していく運命にあったようだ。

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