ところが、東インド会社は、独立の事業権を持つ社員たち――つまり互いに競争し合い出し抜き合う商人たち――が、自己の利益のために好き勝手に活動し、紛争や反乱の原因をつくっていた。その結果、会社の正規軍が出動したり、それでも収まらない場合には、ブリテン本国から軍を派遣したりというように、本国の財政支出・負担が必要になったりした。
もちろん、会社の内部統制や内部牽制はそもそもどこにもなく、財政や会計は乱脈を極め、現地社員の私的利権の巣窟となっていた。
現地に社員や会社の兵員として赴いた連中が利得のために好き放題にやり、そこからあがった利潤を本国の会社の下株主たちが高利回りの配当として分配を受け、その結果インドに生じた混乱のツケはブリテン政府に追わせるという仕組みができ上がった。しかし、混乱や紛争を抑えるために、西ヨーロッパからインドへの艦隊や陸軍を派遣するのはとてつもなく金がかかった。
こうして、「植民地支配と貿易による利潤は会社(社員と株主)に、尻拭いは本国政府に」という悪循環ができ上がった。
本国の議会と政権は、エリート金融・貿易商人階級と有力地主階級(ともに貴族)によって統治されていたが、彼らは庶民院をつうじて政府の財政支出と収入をできれば単年度、せめて数年度間での均衡をめざしていた。だから、東しインド会社の目に余る経営様式と行動に厳しいチェックを入れるようになっていった。
とうとう本国政府が調査と統制に乗り出し、19世紀半ばには会社は解散させられ、ブリテン政府による直接植民地支配となった。
だが、支配と収奪の性格はまったく同じか、さらにひどくなった。イングランド貴族層はインドにイングランド型の土地所有制度つまり地主制を持ち込んだのだ。
ことに、ブリテン人不在地主による土地所有=土地支配が著しく拡大した。
その頃から、インド民衆や民族・部族による蜂起や反乱が頻発するようになった。
これに対応するためブリテンは、インド支配のための行財政装置や正規軍(拠点)を組織し、鉄道連絡網を建設していった。それはまた、多数のインド人を政府組織の周囲に集結・組織化し、各地に人びとのコミュニケイション手段を形成する条件を生み出すことでもあった。
こうして、統治=行財政の実務に堪能な多数のインド人が生まれ始めた。
1877年には、インドをブリテン帝国に組み込み、ヴィクトリア女王がインド皇帝として戴冠した。それはまた、インドの特権階級・富裕階級への市民権――特権的な臣民の権利――を付与する道でもあった。本国で市民権保護のために利用される法制度や慣習が、インドでもインド人のために利用されることにもつながった。
とはいえ、ブリテン人によるインドの経済的支配は深化していった。当然のことながら、民衆の抵抗や反乱も増えていった。そういう動きに植民地政府で働くインド人エリートや専門職層が結びつくようになった。
1885年には、第1回インド国民評議会が開催された。
2年後に、インド国民評議会は独立運動の中心組織、統一戦線組織となった。とはいえ、いまだ富裕な特権的エリートの運動であって、インド植民地全体の人口からすればごく少数の運動にすぎなかった。
やがて、大学などの高等教育機関も創出され、インド人特権・富裕階級のなかからインテリゲンチャや準エリートが生み出されていく。そのなかから、インドの独立、国民形成を課題として意識するグループが登場する。
1906年には汎インドイスラム教徒(ムスリム)連盟が結成された。
その年、連盟の有力な若手指導者、ムハマード・アリ・ジンナは国民評議会に加盟した。広い視野を持つエリートや知識人階層のあいだでは、分断や対立を克服し、同盟して植民地的従属から離脱しようとする運動が芽生え始めた。