1937年の各地方政府の選挙では、11州のうち8州で国民評議会派が勝利して政府を組織した。独立派の圧勝といえた。
ところが、1939年、インド総督=副王のリンリズゴーは、インド連邦の連合軍への加盟を、各州地方政府との協議なしに決定し公表した。これに対して国民評議会派は強く抗議して、地方政権を降りることにした。ブリテンに軍事的に同盟する連邦政府には参加できないという意味だった。
これには、多くのインド民衆が落胆したようだ。ここでも、インド人民は分裂しようとしていた。
■ガンディの戦術的選択■
このとき、ガンディは国民評議会からの要請を拒んで、インドはブリテン=連合国側に味方すべきだと表明した。具体的には、ブリテンの戦争中は不服従運動を一時的に中断しようと提案したのだ。
枢軸国側のレジームを知った上での判断だったかどうかは、いまだに不明だ。この戦術的な選択は、ある程度ナチスドイツ側の立場や狙いについて知っていたからではあろう。
それよりも、ガンディにとって、ブリテンとの連合・同盟から分離してのインド独立、インド国家の形成はありえなかったのであろう。そして、それがインド知識人層の平均的な考え方だったのではなかろうか。
というのは、第2次世界戦争中、インドからの連合国=ブリテン軍に参加した志願兵の数は150万にのぼったという。戦争参加国のなかで最大の兵員数だ。
あるいは、多くのインド人としては、インド独立に向けたブリテンの既定方針を変えさせないように支援し、さらに促進・加速しようという考えから志願したのかもしれない。
とはいえ、非暴力主義のガンディが、インド人を兵士として列強どうしの戦争の場に送り出すことに賛成はしていなかったのではなかろうか。
インド内部では、連合国側に同盟しての参戦をめぐって民衆の意見は深刻な分裂・対立を見せることになった。独立運動はいくつものヴェクトルに引き裂かれ分裂した。
そして、おりしもアジアで日本軍との熾烈な戦闘に突入した――日本軍の南アジアへの侵略を受けた――ブリテンは、この地域での覇権と権益を守ろうとしてインドの統制と防衛のために強硬策に打って出た。独立したインドをふたたび強硬に統制しようというのだ。それはインド住民の反発や憤激を呼び起こした。
■分裂と対立の深化■
ブリテンの強硬策に対抗して、国民評議会の指導者の多くも強硬な闘争方針を打ち出した。その結果、国民評議会の指導者の多くが逮捕投獄された。
ガンディも含めて、独立派は民衆に職場放棄やストライク、デモンストレイションへの参加を呼びかけた。破壊工作や爆弾闘争も続発した。インドは混乱に突入していった。
その頃からムスリム同盟は、ヒンドゥ教徒など国民評議会の主流とは分離した政策をとるようになった。ブリテンの戦争政策に全面的に賛同し、それと引き換えに、ムスリム派が多数派ヒンドゥと分離して独立することをブリテン政府に認めさせる方針に転換したのだ。
それというのも、インド植民地――インド+パキスタン+バングラディシュ――ではイスラム教徒は人口においては圧倒的に少数派で、1920〜30年代をつうじて国民評議会のなかで占める地位が低下し続けたからだった。
国民評議会は左派と右派へ分裂しただけでなく、ムスリム同盟派が分離していくことになった。さらに加えて、ブリテンへの同盟を全面的に拒否する「左派」は、国民評議会から分離して「全インド前衛ブロック」を結成し、その有力な指導者がドイツから反ブリテン闘争への支援を受けるためにナチスと協力するようにさえなった。
ヨーロッパから遠く離れたインドでは、ドイツの政治の実態をまったく知らなかったので、「国民社会主義」という語はかなり理想的に響いたのだろう。
全インドが独立した1つの国民を形成するというガンディの理想は、こうして潰えていくことになった。