さて映像物語は、1948年、ガンディの暗殺の場面から始まる。そして、場面は半世紀以上も時代をさかのぼり、1893年のブリテン帝国のコモンウェルス、南アフリカに移る。
24歳のモハンダス・カラムチャンド・ガンディが長距離列車の一等客室
それよりも5年前、ガンディはロンドンの法学院に留学して帝国全域で認められる法廷弁護士の資格を取っていた。ロンドンでは、知識人・準エリートしての処遇を得ていた。もっとも、彼の周囲の人びとは洗練されたエリートや専門職層だったから、あからさまな差別を受けるはずもなかった。
とはいえ、政治的ないし経済的権力を持つエリートのインナーサークルからは目に見えない形で排除されていた。
■過酷な人種差別制度■
ところが、列車で切符改札に回ってきた車掌は、有色人種のガンディが一等席車両に乗っているを見て驚きを示した。車掌は引き返し、まもなく官憲を連れてきた。
「有色人種は一等客室には乗れない、三等席車両に移れ」と命じた。
憤慨したガンディは抗議したが、力づくで車両から追い立てられ、次の駅で列車から放り出された。
南アフリカの人種差別制度の残酷な実態を身にしみて体験したわけだ。
当時、南アフリカ「共和国」もまたブリティッシュ・コモンウェルスに属している限り、抽象的な法理論では、ブリテン帝国の憲法的規範が妥当すべきであった。だが、ヨーロッパ系住民が圧倒的多数派を占める地域以外では、そんな法理は、原住民による独立運動が活発化するまでは、ほとんどまったく顧みられなかった。
南アフリカはことさらにひどかった。
しかも、南アフリカ政権は、原住民やインド人(アジア系有色人種)の反乱・抵抗運動には過酷な暴力による弾圧をもって臨んできた。闘争的な運動は、組織化する前に残酷な抑圧によって粉砕されてしまった。
■品位ある異議申し立て■
そこで、ガンディが人種差別に抵抗するために考案した戦術は「非暴力」の「不服従」だった。だが、非暴力=不服従は高度に知的で倫理的な抵抗戦術で、それまでのような民衆の自然発生的で粗暴な結集とか組織だった集結や集団的示威運動とかに結びつくものではなかった。
むしろ、個々人の倫理観と心性にきわめて強く依拠する運動形態だった。
官憲の捕縛や規制に対しては力づくの抵抗をしないが、しかし畏怖し服従するわけではない。結局、不服従の意思を示すだけで、なされるがままに拘束され投獄される。だが、監獄もすぐに満員になる。短期の投獄期間で釈放される。これでは、当局の手間がかかるだけである。
スタイルからいって、個人の行動スタイルの選択であって、そういう行動スタイルがモード化することで、非暴力=不服従は「社会的広がり」をもった運動に発展するものだった。こうしたプロテストはことにインド人社会に広がった。
したがって、表立った組織化や抵抗運動にはならないから、当局は集合した群衆を弾圧するようには抑圧・封じ込めはできなかった。こういう行動モードの代表者を拘束・投獄することはできても、彼らは組織をつうじて運動=モードを指導しているわけではないから、封じ込めや壊滅はできない。
むしろ、統治の停滞や機能不全がいたるところで生じるだけだった。
そして、ブリティッシュ・コモンウェルスやヨーロッパにおいては、非暴力・不服従の抵抗運動の弾圧は南アフリカの人種差別制度に対する道義的・倫理的批判を拡大するだけだった。
南アフリカ政府は、そのためにこの運動に譲歩して、インド人に対しては一定の制限の範囲内で市民権を認めざるをえなくなった。それは人種差別制度に入った小さな小さな亀裂だったが、ガンディ派の決定的な勝利だった。亀裂は100年近くかかってゆるやかに南アフリカ全体に広がり、人種差別制度・アパルトヘイトをヒビだらけにして、ついには解体させるための一歩になった。
南アフリカにおいて、ガンディはこの非暴力=不服従運動を1897年に始めて、1914年まで続けた。翌年、彼はインドに帰国することになった。