ヨーロッパおよび世界でのドイツ・枢軸同盟との長期の戦争ですっかり疲弊したブリテンは、戦争には勝利したが、もはや従来の広大な植民地帝国を保持し続ける力量を失っていた。リスクとコストの大きいインドについては、ことにそうだった。
戦争終結までには、インドの独立はもはや後戻りできない「既定の方針」になっていた。問題は、どのようなコースと形ででインドの独立を実現するかだった。
ブリテンは、中東地域と同様に、インドでも戦争への支援と同盟を得るために多様な諸勢力それぞれに対して、同時に実現不可能な譲歩案――約束手形――を乱発していた。つまり、戦争後には、紛糾と紛争が噴き出すことになる。
その最大のものが、ムスリム同盟の影響下にある人口(住民集団)を「パキスタン」として、ヒンドゥが多数派の「インド本体」とは別の国家=国民として独立させるという政策だった。
国民国家という政治形態は、その領土内の中核的な権益や利権を国家=中央政府が独占的に支配し、域内諸集団や諸階級に配分する仕組みでもある。この配分にさいしては、民族とか宗教が大きな影響を与えることになる。
ヒンドゥとムスリムの宗教的にして政治的・経済的な対立と格差、人口の格差を考えれば、一見合理的に見えるこの案は、とんでもない自家撞着をかかえていた。
というのは、ムスリムが多数派を占める地域はインド全体に斑模様をなして分散していて、しかも北西部(現パキスタン側)と東端(現バングラディシュ側)に偏っていたからだ。ヒンドゥ教徒とイスラム教徒は各地で複雑に混じり合って暮らしていた。
こうした住民を宗教に応じて別々の国家に分けるというのは、つまり、それぞれの住民を現住地から強制的に引き離して2つの国家領土に分離してまとめるということになり、それは社会や文化の解体と再編合を意味するからだ。
「将来のインド」に居住するムスリムと「将来にパキスタン」に居住するヒンドゥ教徒は、それぞれ「将来の国境」の反対側に移住を強制されることになった。しかもパキスタンは、インドの東西2つに分離したままそれぞれ国家=国民を形成することになった。
この熱暑と乾燥の大陸を何百キロメートルも移動する強制移住の過程で、2つの宗派は数え切れないほどの小競り合いや暴力的な反目・抗争を繰り広げた。それまでの生活基盤を奪われて流浪しなければならない理不尽な苦痛と憤懣の原因を、互いに相手側に求めて敵愾心を抱き、衝突した。夥しい数の死傷者が出た。
そのようなルサンティマンを土台にして、インドとパキスタンという2つの国家の「国民感情」「国民意識」が形成されていったがゆえに、そののち2つの国家は政治的にも軍事的にも対立し、何度も戦争を繰り返すことになった。
ガンディは、パキスタンとインドへの分裂=独立に強く反対し、多数派のヒンドゥにムスリムへの大幅な譲歩を求めた。しかし、ヒンドゥはムスリムとの再融合や国家内共存を拒否した。
ところで、この段階ではインド地域はブリテンの植民地なので、ヒンドゥとイスラムとの分離は主権(宗主権)を持つブリテン王国=インド総督の命令として執行された。ブリテン側としては、この2つの宗教(民衆)のあいだの反目・敵対については手の施しようがないという状況判断だった。植民地統治をめぐるブリテンの実質的に最後の政策が、2つの宗教文化の、しがって2つの住民集団の分割となったのは、いかにも歴史の皮肉としか言いようがない、。