このように超大局的には、インドの独立にとって有利な状況が生まれつつあったのだが、インドおよび独立運動内部では分裂と混乱、紛糾が目立っていった。
そもそもインド地域はまとまった政治体に統合された経験がなかったうえに、ブリテンの植民地支配のもとでも深刻に分裂していた。植民地は1つの国家をなしていたわけではなく、互いに分立する諸地方=断片がブリテンの軍事的・政治的・経済的優越のもとで、どうにかまとまっていたにすぎなかった。
しかも、ブリテンは植民地支配のためにインドの諸地域の民衆・階級を意図的に分断し対立させてもいた。
Aの保護領はインド植民地の半分の面積を占める。
しかし、直轄領といっても、旧来からの太守領や侯国などの統治領域の区分――というよりも分断――を引き継いでいたが、そのうえに東インド会社以来の行き当たりばったりの統治単位の寄せ集めだった。
要するに、ブリテンの宗主権を認めて臣従する諸侯国の残骸――というのは形骸化されて会社の傀儡になりはてていたから――の集まりで、力関係が変われば、ブリテンに反抗する可能性があった。19世紀になると、ブリテン人の不在地主領主が支配する所領が拡大した。
まして保護領では、諸侯(太守や領主たち)の統治する政治体がひしめいていた。
これに、部族や民族、宗教、カーストによる分断が、行政単位や管区を貫いて、民衆を引き裂いていた。
そして、分断され、分立した人びとはそれぞれに固有の利害を担ってときに対抗し、同盟し合っていた。
さて、独立運動のスローガンは、当初の自治から全面的独立へと深化していったが、運動に参加する勢力や民衆が増大するにしたがって、ムスリム連盟と評議会派(ヒンドゥー同盟)とに大きく分裂していった。
ブリテンとしては、インドを原住民多数派に統治権力を引き渡すにしても、深刻な混乱や分裂、紛争なしにこの過程を誘導しなければならない。というのも、戦間期〜戦争中には枢軸同盟側の介入を回避したかったし、戦争後にはブリテンのインド洋方面での影響力の保持を阻害するような状況にはしたくなかったからだ。
いずれにしろ、インド植民地統治の「合理化」のために、1935年インド統治法が成立したが、それは分断されインドを反映して、権限や規範の向け先が入り混じった断裂と紛糾、混乱の象徴だった。ひとまとまりの国民とか民族、住民などというものは、およそ存在しなかったし、想像すらできなかったからだ。
インド独立に向けたブリテン側の政策の全体的な傾向としては、
@インドの諸地方・諸地域は連邦国家を構成する――しかし、この場合の「フィデラル」とは多様な水準や力の政治体が縦並び、横並びに重合するという意味にしか取れない。
A地方政治体(各侯国)で選挙制による政府=議会を組織し、多数派が政権を組織する
B地方政治体の代表を中央に集めて連邦規模の政策を諮問・検討する
というような内容だった。
こういうときに、各地方での「慣習法を尊重する」というお座なり的なアングリカン・コモンロー・システムは巧妙な作用を可能にする。
結局、インドは11の州からなる連邦国家という体裁をとることになり、1937年にはすべての州で政府=議会選挙がおこなわれた。もちろん、選挙権保有者の範囲――どこまで参政権を拡大するか――については、さまざまな限界があった。