ところで、ガンディはアーメダバード郊外の農村の共同農場のなかの質素な家に妻や娘たちとともに暮らしていた。
その頃には、ガンディはヨーロッパ風の市民権思想で武装したインテリという姿から、「歴史的・伝統的なインド民衆」としての姿に変わっていた。身にまとう服装も、スーツからインド伝来の質素な白い(クリーム色がかった)綿布の服に変わっていた。
普段は、表立って独立運動を指導することはなかった。
日々の生活も、いまやブリテンの支配のもとで消滅しつつある伝統的な生活スタイルになっていた。
1日のうち長い時間を、妻や農民から教えてもらった綿糸紡ぎの労働に費やしていた。回転糸繰り器を使って、木綿から綿糸を紡ぎ出していた。その糸とから綿布を織って、質素な服をつくるのだった。インドの気候と風土に適した服装だった。
遅くともその頃までには、ガンディの暮らしは、こうしてインド固有の歴史と伝統、それをもたらした季候風土に完全に溶け込んだ生活スタイルへと転換していた。
ひょっとしたら、ガンディは社会生活のイデアルテュプス―― Idealtyps :観念型・理念の型――の転換をめざして、アジアを支配し抑圧するヨーロッパ列強の文化=文明に対して、アジア=インドの平穏な大地に根差した生活文化=文明を対置していたのかもしれない。
木綿を紡ぎ綿糸をつくり、インド伝来の衣裳を織るという作業は、ブリテンの植民地支配に対する痛烈な批判――支配と抑圧の不当性の告発――を意味していた。というのは、インド土着の農村副業としての零細な手工業の綿織物産業は、ブリテンの植民地統治政策と貿易政策によって、ほぼ絶滅させられていたからだ。
インドは古くから綿花を栽培し、綿糸を紡ぎ綿布を織り、インド洋一帯の高温多湿の気候風土に適した服や繊維品を製造していた。木綿製品はインド洋および内陸経路を交易をつうじて中国、東南アジアからインド洋諸島、中央アジア、アラブ地域、ペルシア、東アフリカなどに売りさばかれていた。
多数のインド民衆が零細な家内手工業によって、インド洋の豊かな生活文化を支える繊維品を供給していたのだ。
この木綿製品は、15世紀末からヨーロッパ人のインド洋・アジア進出・侵略とともにヨーロッパにも輸出されるようになった。
ロンドン東インド会社がインド洋での覇権を握るや、会社の貿易組織をつうじてブリテンにも大量に輸出され、巨額の利潤を稼ぎ出した。
とりわけ夏の服装として綿布は、湿気を吸収して、ヨーロッパに普及していた毛織物に比べてずっと快適で健康的だった。それまでほとんど毛織物――麻繊維を織り込んだものもあった――の製品を身にまとっていたヨーロッパ人たちは、木綿繊維に魅了された。
17世紀までは毛織物産業はブリテンの基幹産業だった。が、東インド会社の木綿繊維貿易によって、大規模な産業構造の転換が生じたのだ。
というわけで、木綿繊維製品は従来の毛織物産業を圧迫し、やがてブリテンに木綿繊維産業の開発に向かう波が押し寄せた。「プロト産業革命」が起きたのだ。
そして、綿製品の生産の組織化・統制と世界的規模での輸出は、ブリテン商業資本の利潤の最大の源泉となった。造船業、金融業、貿易保険業、機械製造業もまた、木綿繊維貿易から巨額の利潤を引き出していた。
ところが、人口の大きさからいって、ブリテンが支配する世界市場のなかでもインドは木綿繊維・織布の最大の消費市場だった。もちろん、土着の産業による供給を受けていたうえに、大量の綿布を輸出していた。イングランドの綿製品の世界貿易を取り仕切るロンドンなどの港湾諸都市の商業資本は、インドでの綿布の自給体制を破壊し、自らの輸出市場へと組み換えようともくろんだ。
ブリテンの有力資本と支配階級は、最大の競争相手であるインド土着の農村手工業の木綿産業を抑圧していった。
他方でブリテン国内では、「産業革命」によって機械制工場での大量生産工程によって、安価な綿製品が生み出されていった。
まずは、輸出の禁止政策、次にインド内部での綿布販売に対する高額の課税、流通機構の完全な掌握……などによって、インド固有の農村部での木綿産業を衰退させ、ほとんど絶滅に追い込んでいった。こうして一時的に競争力を失ったインド綿の代わりに、ブリテンは自国の綿製品を世界中の市場に供給していった。
所得の少ないインド人たちは、価格競争力を奪われたインド綿布の代わりに、いまや安価に供給されるブリテン産綿布を買うしかなかった。
木綿繊維産業にかかわっていた何千万ものインド民衆が職を失い、収入の道を断たれていった。
それまでインドの綿織物業の原料となっていた域内産の綿花は、東インド会社によって低価格で買い取られ、ブリテンに綿工業の原料として輸出されるようになった。木綿に関しては、インドは部分的には、製品輸出地域から、付加価値生産性の低い原料輸出地域へと転落した。
木綿産業を中心とする「自由な産業資本主義」という虚構イメイジの背後には、文化や文明、多数の民衆の抑圧と貧困、そしてそういうものを強いた暴力――貿易と軍事などをめぐる国家の政策――があるのだ。
まもなく――このあと述べるように――インドの木綿製造は近代化された資本主義的工場生産として復活していくことになる。
ところが、木綿繊維産業はやがてヨーロッパをはじめ世界各地に機械化された大量生産体制として拡散したため、ブリテンは急速に綿工業での競争力を失っていくことになる。
ガンディのインド土着の木綿繊維の製造の復活・回復を求める理念には、そのようなブリテンの植民地支配と「自由貿易政策」への痛烈な批判が込められている。
ところで、インドの木綿繊維産業は、農村副業=手工業としては絶滅したものの、インド富裕商人が支配する機械制の面工業として再生復活し、成長していった。なにしろ、伝統的な多様な織り目や織り方をさらに洗練させ、モスリンやキャラコの風合いを生かした近代的な繊維生産に移行して、インド洋やアフリカ、アジアでの市場を確保し続けた。
このようなインド木綿産業の近代化を指導した土着資本家層のなかには、やがてあのタタ財閥となる家門の商人たちがいた。タタ家門は生き残り、世界的大資本となって、ついに先頃、製造業が衰退し切ったブリテンの有力企業を買収して、ブリテンでも大きな経済的影響力をもつようになった。
インドの木綿産業を絶滅させようとしたブリテンはその後長期にわたって産業的に衰退・低落する過程をたどり、21世紀にはそのインドの財閥資本によって製造業を救済・再生してもたい、ブリテン市民に雇用機会を提供するようになっている。歴史の痛烈な皮肉だ。