1950年代までのソ連の刑法理論・刑事政策は、公式見解上は、基本的にこのような原則論に拘束されていた。
というよりも、
ソヴィエト国家は私有財産制を廃絶して、国有財産(人民を代表する国家が全社会の財産を所有し管理する仕組み)に対して人びとは平等な関係に立つことになったし、敵対的なほどに大きな格差は解消されたのだから、所有や経済的分配における利害の対立がほぼ解消されたのだから、金や物などをめぐる利害や欲望にもとづく犯罪は、少なくとも深刻な質・規模のものはしだいに消滅していくであろう、という原理に立っていた。
それゆえ、しだいに消滅していくであろう犯罪に対して、国家の活動や人材の多くを割り当て、振り向ける必要はさほどないもの、と公式的には見られていた。
党や国家の「公式見解」がこのように決まると、それは政府組織としての警察や司法機構の動き方、運営方式を拘束してしまう。そういう意向(イデオロギー)に合わせた「事実」を粉飾捏造してしまいがちになった。あるいは、建前上、全市民は自らの利害のために社会主義建設に参加協力しているのだから、資本主義的な悪弊の残存や例外的逸脱と位置づけ、本格的な犯罪捜査にエネルギーを割かないようになった。
つまり、現場の警察官やその管理職層は、窃盗や強盗、殺人などの犯罪を公式的には「上の方」に報告しない。事件を闇から闇に葬ってしまう。まともな捜査や取締りをしない。もとより人員や予算も回されない。
だから、犯罪者は捕縛されずに社会に横行しがちになるし、犯罪は減らないばかりか、増加する。
にもかかわらず、ノメンクラトゥーラの情報フィルターによって、国家の上級機関や党の指導層にはこのような現実に関する情報=実態が伝わらない。現場から中間管理層をつうじて、幾重にも「国家と党のイデオロギー」に忠実たろうとする情報フィルターが張り巡らされ、中央の意向に沿った(歓迎しやすい)情報ばかりが伝えられる。そうなると、党と国家の政策は、ますます現実に合わない、ばかげたものになっていく。
イエスマン、「上司のご機嫌取り」ばかりが幅を利かす組織――企業など――は、意思決定機構に正確な情報が収集されないために、やがて環境に適応できずに弱体化し、あるいは衰退していく。では、国家の場合はどうなるのか。
ソ連では、1960年代半ばまでには、犯罪=刑事政策の転換が始まった。ある程度は、ソ連社会はいまだ階級格差(階級敵対まではいかないが)が残存する段階にあって、生活水準は物質的にもまださほど豊かではないので、利害や欲望による犯罪はまだ広範に発生しうる、という見方になった。
スターリンレジームが批判されてから10年ほど経過して、自由化と経済改革を進める必要もあった。世界市場への復帰と国際競争で「社会主義体制」は優位を示し生き残らなければならない、という命題が提起されていた。
しかし、この段階では、生まれながらの個性とか精神的資質、病的な社会心理による犯罪、組織された暴力や組織犯罪に対しては、有効な政策は打ち出されてはいなかった。
それが、こういう根の深い犯罪が、否定しがたい圧倒的な現実として、立ち現れ、国家・司法警察機構に対処を迫るようになったのは、やはり1970年代だった。60年代の経済改革が行きづまり、国家の財政危機と経済危機が目に見えて深刻化してく時代だった。