話は飛ぶが・・・・・・最近、「森友学園」事件で、国有地払下げの価格設定をめぐて、財務官僚による権力者(首相夫妻)への忖度――というよりもありていに言えば阿諛追従――が問題になった。
安倍首相がどうのこうのというよりも、日本の大きな企業や官庁、とりわけキャリア官僚の世界は「上つ方の空気を読んで」行動することで出世競争で優位を確保しようとする官僚組織の権力とか同調圧力のありように、私はいまさらながら驚いた。そういう力関係とか共同主観・共同幻想に屈するシステムなのだということを、はしなくも世界に顕示する事件というわけだ。
エリートの世界の論理は、庶民の常識からすると、アホンダレみたいな世界なのだ。そういう世界の仕組みの無理や歪みが、高齢化や人口減少とともにアンサステイナブルになってきているということだ。
ところが、この映画作品は、《自分に正直に生きること》と《相手の気持ちを忖度すること》との緊張関係をユーモラスに問いかけてくる。ここでは、上位者や権力を忖度するのではなく、対等な人間どうしがしての気持ちを察する難しさが描かれている。
とくにタケと与三郎との会話はトンチンカンで大笑いだ。
そこには、
自分の生き方に正直なあまり、そして、自分の気持ちを必死で伝えようとするあまり、相手の言い分や立場への忖度・配慮を完全に後回しにするタケの善意と、自分を捨てて相手に奉仕しようとする与三郎の善意が、コミュニケイションの捻じれを生み、いわば脱臼ともいうべきほどのズレやすれ違いが起きて、与三郎が憤慨するという構図が描かれている。
私はこれを「コミュニケイションの捻挫」と呼ぼうと思う。
そもそも2人の出会いの瞬間に、すれ違いと衝突が起きた。
村営の巡回バスを運行する村長の与三郎が、タケに「あのボロ家に住むという人か」と言いながら、挨拶がてら名刺を差し出した。
ところが、タケとしては大変気に入った古民家が「ボロ家」と評価されたことに反論しようとして、「ずい分古いですが、なかなかに良い風合いで、手を入れれば・・・・・・」と説明を始めた。だから、差し出された名刺は眼中に入らない。
「人が挨拶代わりに名刺を差し出している最中」に、場を考えずに自分の評価を必死に真摯に説明しようとするタケ。それをたしなめる(説教する)与三郎。
この2人のやり取りは、和風の座敷の「違い棚」の妙を見るようだ。私は「会話が捻挫している」と大笑いした。
さらに、バスを運転して転覆させてしまったタケが預金をはたいてバスの命名権を買い取るという形で、購入費用を寄付することになる交渉場面。
与三郎に殴られたタケは衝撃で聴覚が一時的に悪化して、与三郎の言い分を聴き取れなくて何度も聞きなおす。「おめえ、バカにしてんのか」と、さらに与三郎の怒りに油を注ぐことになる。
すったもんだのあげく、助役の伊吉っつぁんが、タケと与三郎の意見の対立を仲裁して、どうにか「バスの命名権の取得」という落としどころを提案した。
伊吉は、村の財政逼迫のなかで、タケの善意を最大限生かしてバスの購入費を捻出する方法を編み出したのだ。こうすれば、村長の反対を抑えられるだろうと。
しかし、阿吽の呼吸やら妥協のための忖度には、タケは頭が全然回らない。で、質問する。
「バスの命名権というのは?」
「ほら東京都のサッカー場が『味の素』スタジアムという名前になったでしょう」と、いそ子が例えを引いて説明すると、
「ああ、じゃあ、それでいいです。味の素でいきましょう」とタケ。
要するに命名の中身はどうでもいいのだ。この場で「それらしい名前」をとりあえず考えてみようという「気の回し」(忖度)はない。
ところが、村営バスが「味の素」ではしっくりこないという意見が多数で、結局、村長の与三郎の提案で「ほでなす号」とすることにした。
タケの行為は愚かだ、と言いたいから、アホタレ、バカタレという意味の「ほでなす」にしたのだろう。
ところが、タケは「ほでなす」を励ましの言葉だと勘違いして感激する。
というように、この物語は会話や展開の筋が捻じれ、ひねり回されているのだ。何かそれが、不思議な深い感動を呼び起こす。
世にいう「空気を読んで」周囲に同調してストレスを蓄積していく、そういう現代人の生き方を自己批判的に省察する――もう少し自分に正直に生きてみようと試みる――ために格好の物語だ。