ニュウヨークの大手広告代理店のアート・ディレクター、テッド・クレイマーは家庭のことをすべて妻のジョアンナに任せきりで、会社で朝から深夜まで働いていた。
ところが、もとはキャリア志向だったジョアンナは家庭にこもりきりでいるうちに精神的に追い詰められて落ち込み、愛息ビリーを置いて家を出てしまった。やがて離婚を申し立ててきた。テッドは家事と育児にてんてこ舞い。仕事に没頭できずに会社を辞めるしかなくなった。
しかも、ジョアンナはビリーの養育権をめぐって裁判に訴えてきた。
双方の弁護士たちは、法廷闘争での勝利を得るために、相手側の弱みを暴き立てて追い込んでいった。ジョアンナとテッドはともに、弁護士の尋問があまりに攻撃的で辛辣・無慈悲なことに愕然とした。訴訟では結局、ジョアンナが勝利した。
だが、母親に置き去りにされ、ようやくテッドと父子の生活という生活環境になじんだビリーには、母親と暮らせる喜びよりも、父親と別れる辛さの方が大きかった。子どもの困惑を知ったジョアンナもテッドも苦悩することになった。
テッドは愛称で実際には Theodor :読みはテオドールまたはセオドア、語源はラテン語で、その意味にはドイツ部族、ドイツ人という意味がある。ファミリーネイムが Kramer ――ドイツ語読みでクラマーとなる――なので、ユダヤ系ドイツ人移民の子孫だろう。妻のジョアンナもドイツ語読みでヨハンナなので、やはり同じ来歴をもつと思われる。
テッドが仕事に熱心すぎて――男女対等化が進んでいた大都市ニュウヨークにあってなお――家事と育児を妻に任せ切りという保守的な生活スタイルも、当時のユダヤ系にありがちな傾向とも見られる。
つい先頃までジョアンナはひどいノイローゼに陥っていた。
自分にすっかり自信を失い、自殺さえ考えるようになった。精神科医のテラピーを受け続けて、やっと最近、落ち着きを取り戻した。そして、「自分の人生設計」を考えるようになった。
苦悩したあげくにたどり着いた結論を実行するため、その夜、ジョアンナは家を出ることにした。可愛いビリーを残して。彼女は、衣類などを荷造りして準備し、テッドの帰りを待った。
さて、一方のテッドは今日も深夜まで会社で仕事をしていた。テッドはクリエイティヴ・ディレクタ――当時はアートディレクターと呼ばれていたようだ――。最近彼は、このところのアグレッシヴなプレゼンテイションが成功して、有力大企業アトランティック社をクライアントにすることができた。その最初の広告制作に没頭していた。
この成功で、テッドはその夜、上司の副社長からレストランでの夕食に招待されていた。副社長が管理する部門は、このところテッドの活躍で大幅に業績を伸ばしていた。おかげで、副社長は近く、共同経営者として代表権のある地位に就くことになった。
その夜は、お祝い気分でテッドを招待し、テッドの昇進を約束した。 で、帰宅は遅くなったが、テッドは達成感で満たされて、家に帰ったらすぐにジョアンナに昇進を報告しようと、意気揚々と家路に着いた。
ところが、家に入った途端に、青ざめるほど決意に満ちたジョアンナが別れ話を切り出した。とはいえ、ジョアンナはテッドを責める言葉は一切発しなかった。ジョアンナは自分にすっかり自信を失っていて、もはや家庭生活を続けることができないと思いつめてていた。
必死に説得しようとするテッドの手を振りほどいて、 「私が悪いのよ。止めないで。このままここにいたら、私は自殺するしかないわ」と言い置いて、エレヴェイターに乗った。
「ビリーはどうするんだ」という夫の問いかけにも、「今の私にはどうすることともできない。置いていくしかないの」と返答するばかり。
そのまま、ジョアンナは行くあてもなく深夜の街に出ていってしまった。
言ってみれば、ジョアンナの行動は「緊急避難」だった。とった行動は極端だったが、彼女なりに現在の状況に距離を置く手段だったのかもしれない。