さて、テッド側の証言と反対尋問の番になった。
テッドは、ジョアンナ側に対して自分の優越をことさら強調する戦術を選ばなかった。むしろ、ジョアンナの孤立や不安に無関心・無理解だったことを詫びた。そのうえで、ビリーが母親に置き去りにされたと感じたことは事実で、今ようやくビリーはその経験の悲しみから立ち直り、どうにか父と子2人の生活になじんできた。
2人の家族としての生活を築き始めたところだから、この努力の継続を妨げないでほしい。この父子の関係は2人が引き離されれば、容易に崩れ去ってしまうもので、ひどいショックから立ち直りながら築き上げてきた「家庭」というものを再びビリーから奪ってしまう。そうならないように。というものだった。
だが、ジョアンナの弁護士の舌鋒は、テッドのジョアンナに対する思いやりを歯牙にもかけないほどに残酷で辛辣だった。
弁護士は、広告代理会社をテッドが退職したことを、まるでテッド自身に原因があるかのように脚色し、その後の再就職についても、ジョアンナの収入よりも低いものであることを、ことさらあげつらった。
そして、ジョアンナに無理解・無関心だったことを反省するテッドを責め立てた。
しかもそのうえ、証人となった隣人マーガレットに対しても酷い攻撃手法で攻め立てた。マーガレットはかつてはジョアンナに味方して「自立」を進めたけれども、今はテッドの愛情に富んだ育児努力を認めている。そのマーガレットをとことん追い詰めた。
過去にジョアンナに別居や離婚さえ提案した事実を、その後の経緯から切り離して取り上げ、そのときのテッドに対する厳しい評価を、彼女の事実判断として固定してしまった。
最期のとどめは、最近、ビリーが公園のジャングルジムから落下して怪我したことを取り上げ、それがテッドの育児能力や保護・養育者の資質の欠如であると決めつけたことだった。
■法廷描写への疑問■
この裁判は陪審制ではない。専門職の判事を相手にして、ここまで激烈な騙し打ちのような奇襲を駆使するのだろうか。大いに疑問がある。
というのは、陪審員と違って、法曹専門の裁判官は背景コンテクストへの目配りを怠らないはずだ。だから判事に対して、これほど《 out of the context 》な論陣を張って功を奏するのか。奏するとすれば、アメリカの裁判官の水準はものすごく低いということになる。
私としては、これはアメリカの裁判制度の欠点を、誇張するカリカチュア風表現ではないかと思う。
判決の通知・表明は、当事者を法廷に呼び出しての言い渡しとしてはおこなわれなかった。これは、アメリカではこの種の裁判がそれこそ無数におこなわれているため、ことに家庭内問題の訴訟では、いちいち法廷を開催していては、裁判官の身も持たないし、費用が膨大になってしまい、手続きそのものも煩雑化して滞ってしまうからか。
数日後、テッドはショーネシー弁護士から呼び出された。判決が確定したということで。
心配していたとおり、敗訴だった。
敗訴の主要な原因は、テッドの側の親としての条件が劣っているという事実ではなかった。テッドの側が、ジョアンナの人格を傷つけるような論陣を控えたからだ。つまりは、テッドの方が理性的に振る舞い、弁護士の舌鋒を抑制したからだった。
言い換えれば、ジョアンナ側の弁護士がいかに「勝訴そのもの」に執着し、冷酷で無慈悲な尋問を展開したかということだった。
テッドは、判決を聞いたときには「控訴する」と言い出したが、控訴審ではビリーを証言台に呼ぶことになると聞いて、控訴を諦めた。ビリーが証人席で、あのような辛辣な舌鋒にさらされ、父と母のいずれかを選ばざるをえないような立場に追い込まれるのは、何としても避けるべきだと考えたからだ。
テッドは、裁判では勝訴のために「手段を選ばないような厳しさ」に徹することができなかった。というのも、いまだにジョアンナに好意を寄せていたし、人間としては信頼感を抱いていたからだ。法廷闘争での勝ちにこだわれば、テッドとジョアンナとの関係は完全に破壊されてしまうかもしれなかった。離婚をしたとはいえ、敵対関係に立ってまで、親権を勝ち取るつもりはなかった。
だから、ビリーの保護・養育権をジョアンナに渡す覚悟を決めた。