今では、少なくともヨーロッパやアメリカなどの「先進諸国」――ここに日本が含まれるかについては論争があろうが――では、《女性の自立》ということはしごく当然のものになっている。社会的ないし政治的な論題としては。
ただし社会的内実を考えると、《女性の自立》という課題は、なかなかに難しいテーマだ。そもそも、何が達成されれば、女性の自立が実現するのかについても、人それぞれに異なっているから。
そこで、この映画で取り上げられている範囲で、この面倒なテーマについて考察してみたい。
女性の職業的=経済的自立がかなり進んでいるかに見えるアメリカ合衆国では、1970年代の末になっても、女性の自立というテーマは、この映画がつくられ大きな話題になるほどに、未解決で差し迫った状況にあった。このことは、映画がつくられてヒットし、映画界での話題をさらったことからも、証明されている。
じつは1970年代までは、アメリカ合衆国憲法には、男女の同権を明文で規定する条項がなかった。そして、保守的な州では、そうした同権条項を制定し批准することに大きな抵抗があったからだ。
もっとも、アフリカ系黒人や有色人種の差別や迫害も根強く残っていたから、じつは、アメリカは法制度や政治での異性間や人種間の同権や民主主義の制度化のレヴェルでは、1970年代までは恐ろしい「後進国」だった。国家としてのアメリカが掲げる「自由」とか「民主主義」にはそういう一面性、限界がつみまとっていたのだ。
そういう歴史を顧みることもなく、アメリカは――とくに保守派の大統領府であるほど――、自分たちは「民主主義の手本であって、最大の守り手」だと主張したがっている。困ったものだ。
だが、さらに困ったことは、今の日本のマスメディアは、そういうアメリカの国際政治向けのキャッチコピーを鵜呑みにして、「アメリカは民主主義の旗手」なんていう戯言を平気で流していることだ。まったく、歴史や事実を知ろうとしない連中には辟易する。
さらに「市民的自由」を口実に銃などの兵器が野放しにされ、国民的規模での医療保険や社会保険制度がないという状態は、民衆や市民が平和な環境で自由かつ法的に平等に生活する環境は整わないという初歩的な認識さえも成立していない国家なのである。
少なくとも、ヨーロッパや日本の「常識」から見ると、そういう国民=国家である。
なにしろ、19世紀の後半になってすら、「黒人奴隷」制度の廃止をめぐって内戦になるほどの頑強・頑迷な「格差自由放任主義」がはびこっていた社会なのだから。
そしてプロテスタント保守派に至っては、私たちの宇宙と世界の生成をめぐっては聖書を信じるべきだと頑迷に主張し、いまだに進化論や宇宙生成理論の教育を拒否しているくらいの後進性がつきまとっているのだ。
もっとも、日本にだってイングランドにだって、どこかに頑迷な差別意識や人種主義がはびこっているのだから、ことさらアメリカが悲惨だというわけでもないかもしれないが。
とにかく、そういう事情を押さえたうえで、この映画の背景状況・社会状況を考えなければならない。
だいたい1980年頃までは、アメリカでも大都市でさえ、ことに大きな会社に勤務する男ほど、それだけ高額の年収を得ていたがゆえに、「妻が職業人として働いて稼ぎ、経済的に独立して生活する」なんてことは考えなかった。もちろん、「夫婦共働き」が必要ないほどに経済的に恵まれていたから考えなかったわけで、男女同権に反対だったわけではない。
むしろ、発想・思想としては、都市の専門職・管理職階級の男性は「女性の自立大いに結構」、同権化推進という立場だった。
われらがテッドもそうだ。離婚して訴訟になってもジョアンナの立場を公平に考えて行動していた。
ニューヨークという開けた大都市で生活している知識人だから当然と言えば当然だ。