ラストエンペラー 目次
見どころ
あらすじ
世界史の文脈のなかで
最後の皇帝の人生回顧
宣統帝溥儀 死にゆく帝国
中国の帝国レジーム
「分封建国」
奇妙な政治体=帝国
文字情報と官僚制
帝室と宦官
帝政の権力構造
皇帝権力の基盤
装置としての皇帝
最後の帝国「清」
遅れてきた帝国
ヨーロッパの勃興と…
ブリテン…東インド会社
アヘン戦争
崩壊する帝国
帝政の最期
辛亥革命と帝国の滅亡
「遺骸」としての宮廷
残骸宮廷と溥儀の心性
茶番劇の復位
分裂する人格
政変、追放、そして亡命
ソ連の俘虜、そして東京裁判
中国への送還
収監と改造教育
「文化革命」との遭遇
映画制作の「背景」を探る
中国と日本との皮肉な関係

中国の帝国レジーム

  中国の王朝=帝政レジームは、数千年の歴史をもっています。
  史料によれば、中国では紀元前のはるか昔から、ヨーロッパや日本と比べるとはるかに強大な王朝が相次いで成立し、紀元前7世紀頃には、中国大陸各地に数多くの有力な王朝(王国)が並存し、対抗、同盟していたということです。
  そのなかで、1つの王朝が覇権を掌握して大陸の多数の王国や侯国を支配する、巨大な「帝国」として成立するのは、秦の時代だといいます。
  このレジームが変遷成長し、やがて1つの「世界帝国」を形成し、巨大な権力をもつ宮廷や官僚団(宦官や文武の官僚)が組織され、中央からの帝政統治(帝国システム)へと形づくられるのは、漢から唐にいたる1000年間です。

  世界帝国とは、特殊な1つの世界システムで、その版図のなかには数十の王国、数百の侯国、無数の氏族・部族集団が包摂され、また多数の都市や都市国家の群れも包含されていました。
  それらはだいたい、互いにかなりの程度に自立的な軍事単位や政治体をなしていました。それらは、独特の規範=共同主観によって、最有力の王朝とその軍事組織や官僚団・家臣団に服属、臣従していました。
  この服属ないし臣従関係を取り結び組織化するために、帝室と中央政府は複雑で巧妙な制度を生み出しました。中国の帝国レジームに特有な独特の統治方式や軍事組織などです。

  帝国の中央政府が打ち出したそれらの制度は、有力諸侯(王国・侯国)の連合が受け入れ、帝室とともにレジームを形成したというべきでしょうか。

  そのなかでまず何よりも注目すべきは、公式化された文字記録による統治情報の掌握と権威の発信=伝達システムです。
  最重要なものとしては、耕地や農産物の収穫量、都市の商工業の取引量や貿易実態を文字によって記録し、集計する文書技術があります。記録と集計には、とりまとめの単位となる行政管区ないし軍政管区の地理的区分(の組織化)がともなっています。
  この文書記録をもとにして、課税や貢納の度合いや帝国統治を各地で担当する地方支配者の権力が(帝室と諸侯との臣従=恩顧関係として)設定されました。

■「分封建国」■

  帝政レジームにおける中央および地方の支配者(高官)の権力の配分や封碌=受益権について、少し見てみましょう。ただし、私はヨーロッパ法制史・政治・軍事史の研究者でしたので、そのアナロジーや用語法で述べるので、比喩的になるかもしれません。

  古代には輸送・通信テクノロジーはきわめて未発達なので、地方への権威の伝達・威嚇、たとえば徴税官吏や軍の派遣にはものすごく日数がかかります。そこで、帝国統治の基本は、帝室への臣従と引き換えに地方の現地支配者の権威や権力をそのまま認めるという仕組みです。
  これが帝政の1つ目のエレメントです。
  地方有力者の土地支配の権力と権力にもとづく収入を、帝室からの恩顧や俸禄、つまり封土の支配権として認めるのです。
  この臣従関係は、皇帝(帝室)と地方君主との人格的=パースナルな契約関係です。当時はそれ以外の臣従契約の方法は存在しませんでした。

  中央政府による徴税制度(官僚組織)や商業計算(貨幣額収支計算による組織運営)制度が未発達な段階では、各級の支配者への恩顧=俸禄は、一定の分野ないし地方の統治権の付与・承認と同義だったでしょう。

  この統治権には、農産物・特産物の一定割合への課税権力とともに、商工業などをめぐる特許権認可にともなう(税や賦課の)収益権力が含まれます。
  そして、この権力は、統治者の人格的=パースナルな権限(正確ではないが、いわば「私的権利」ともいえる)となっていました。
  当時は、最上位の権力者から末端の官吏まであらゆる階梯で、権力や権限の配分=委託関係は、パースナルな臣従=恩顧関係によって組織されていました。
  それゆえに、各級の権力者の権限行使は、彼らのパースナルな権威や権力の行使としておこなわれました。

  つまり、その「私的な権利」を、賦課や運上金、「袖の下」――名目はどうあれ――と引き換えに、だれにどのように「貸し与え」あるいは「切り売り」して収益を得ようがまったく「自由」だったのです。
  現代の感覚では、行政権の行使と引き換えに私的な収益を得るわけで「賄賂」なのですが、当時の共同主観では、ごく正当な法的権利の行使、ごくまっとうな統治コストの回収方法だったのです。なんら倫理感にもとるものではありません。
  それゆえまた、分野ごと、地方ごと、また統治者の個性・人格・欲深さの違いによって、その勢力や軍事力などによって、名目上同じ権限を与えられても、収益の大きさや内容はまちまちでした。

  今日のように、ナショナルな統治枠組みのなかで統一化され、規範化された俸禄や俸給は、そもそも成り立ちようがなかったのです。地方ごと、分野ごとに規範はまちまちだったのですから。

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