1924年、社会状況から遊離して生活する溥儀を取り囲む禁城の外では、大変な情勢になっていました。
中国東北部では、袁世凱亡き後、日本(軍)の支援を受けて張作霖が、軍事的・政治的優位を獲得していました。張は北京と直隷(帝室直轄領)を征圧しようとしていました。
他方で揚子江沿岸では、共和派=孫文派と安徽派=段祺瑞派が強い勢力をもっていました。そして、直隷から内陸部にかけては憑玉祥派が台頭していました。
張作霖は、南部の孫文派ならびに段祺瑞派と同盟を結んで、直隷に奉天軍を進めますが、憑玉祥率いる直隷の民国軍の反撃を受けて、逆に追いつめられてしまいます。ところが、そのとき憑玉祥が寝返り、奉天軍と停戦し、北京を制圧して禁城を包囲したのです。
このとき、日本の軍部の求めに応じて財閥が提供した巨額の工作資金が、ひそかに段祺瑞と憑玉祥の手に渡されていました。そのため、憑玉祥は張作霖と奉天軍を追いつめずに、北京に駐屯し続けます。
とはいえ、共和主義者=憑玉祥は、自らの信念にしたがって、共和派革命を完遂しようと意図していました。敬虔なクリスチャンの憑玉祥は、中途半端に挫折したままの革命の目標に忠実だったようです。
憑玉祥は、直隷を制圧した民国軍の力を背景にクーデタを起こし、清王室の優待廃止や皇帝への年金支給の停止、故宮からの追放などを要求しました。
11月5日、民国大総統の使節と軍隊が禁城に進駐して、清王室のメンバーに即刻退去を迫ります。恐慌をきたし惑乱する宮廷高官たちに見切りをつけた溥儀と妃たちは、数台の車に詰めるだけ財宝を詰め込んで、宮城を後にします。
状況の見極めもできず、見通しも立てられない溥儀は、なりゆきで、ヨーロッパ(ブリテン)に行くためのステップとして日本を頼ることにします。
はじめは北京の日本兵営へ身を寄せ、次いで公使館に移りますた。ところが公使館でも、旧宮廷官僚や王族などの旧弊な「金魚のフン」がひっきりなしに押しかけてきたため、溥儀一向は混乱のタネでした。
ゆえにやがて実質的「追い立て」を食い、溥儀は天津の日本租界に「亡命」することになりました。
この時期、日本側では軍部や「大陸浪人」たちが、これまたいくつもの分派に別れながら、中国のあれこれの軍閥や帝室を「バックアップ」していました。彼らの陰では陸軍特務機関が暗躍していたようです。
彼らは状況しだいで相互に連携することもあったようですが、要は日本の権益拡大に利用できる駒を捜していたわけです。もちろん、そのさい体よく利権の分け前にありつこうとしてですが。