ここで、現在の私たちから見ると、帝室=宮廷という自己完結的で閉鎖的な制度が、溥儀という1個人の人格を、特異・異様なものにつくり上げていった過程を見逃すことはできないでしょう。
この辺を映像は巧みに描き出していきます。
溥儀はがんぜない幼児のころから禁城に閉じ込められ、清帝国の特殊な政治装置(制度)の1部品(器管)としての皇帝の役割に嵌め込まれるべき人間として育てられていきました。一方では崇められ、他方では操作される人格として。
やがて少年期、自意識に目覚める頃になると、後宮や禁裏の宮廷官たちは、溥儀の自意識や反抗心の発露の方向を、巧みに逸らし、皇帝という制度に抵触しないように誘導していきました。
人間の意識や欲求は環境や教育の産物でしかないということでしょうか。
その頃には、溥儀は「普通の人間」にはとても耐えられない規矩と規範に縛りつけられながらも、名目上は最高の権威をもつ君主として崇められる生活に適応していました。
帝国の名目上の君主として恐ろしく肥大化した自己意識、束縛された閉塞感、そして放恣がないまぜになった、(私たちから見れば)分裂した人格をなしていました。
つまり、周囲の人間の要求や願望に沿うべく言動し、他方で自分の主張を突っ張りとおす「役者」「演者」としての人格です。
そして、思春期になれば、さらに自立心や反抗心が強まり、周囲の扱いに対する不満鬱積が噴出することになります。性欲も生じます。
宮廷官たちは、この欲求不満や閉塞感を発散させ、巧みに逸らすために、後宮女官たちとのアブノーマルな性戯や性交に誘導していきます。そして、倒錯した性欲と遊戯。
かくして、後年、妻たちに忌避されることになる、特異な性欲や女性への態度が形づくられていきました。
この間、帝位を剥奪された溥儀ではありましたが、袁世凱が没落すると、かつての宮廷官僚や一部の弱小軍閥によって旧帝復位の運動が起こって、1917年に帝位を回復しました。
康有為らと結託した軍人、張勲が数千の兵を率いて禁城市街に侵入して、7月1日、帝位の回復の儀式をおこなったのです。
とはいうものの、ドサクサ紛れの茶番劇でした。6日後には、帝政派は民国政府軍に包囲・撃滅され、7月12日には溥儀はふたたび廃位されることになりました。
溥儀はまるで奔流に浮き沈みする塵芥のごとき存在だったのです。
だが、根無しの浮き草のごとき宮廷であるがゆえに、民国政府からも、列強からも大目に見られて、ただの形骸・残骸として存続し、漂泊し続けます。溥儀はといえば、この残骸と旧弊からなる牢獄=温室のなかで生き続ける幽囚でした。
ところで、思春期の溥儀に文化的・教養的な影響を与えるものが、もう1つありました。溥儀のテューター(個人教授)となった、R・F・ジョンストンです。
彼は独特の教授法で、うるさく介入する宮廷官の影響をかいくぐりながら、溥儀にヨーロッパの文化や歴史、思想や生活スタイル(の断片)を伝授していくことになりました。
1919年、溥儀14歳のときでした。
こうして、溥儀の精神のなかには、形骸化した王朝文化、傀儡皇帝としての役割や願望に加えて、ヨーロッパの近代への憧れが蓄えられていったようです。
ヨーロッパ近代が生み出した「個人(の人格)の自立」という観念というか価値観は、規矩による拘束に反発する放恣とがないまぜになって、特異な自尊心や自意識を織りなしていきました。
ところが1921年には、実母がアヘン服毒自殺。しかし、引き離されて成長した溥儀には、生みの母の死を悼む心のよすがすらなかったようです。
この年、旧弊な宮廷官の妨害を押しのけて、ジョンストンの半ば強引な慫慂で溥儀は眼鏡を着用することになります。溥儀は強度の(弱視に近い)近眼でした。これで、視覚から来る頭痛が解消したといいます。
翌年、溥儀は婚約しました。というよりも、宮廷官や母后たちの根回しに乗っただけの妃の決定でした。皇妃(第1夫人)に婉容、淑妃(第2夫人)に文秀が据えられます。婚姻の儀式は年末近くでした。
映像では、2人の妻には、それぞれ分裂した溥儀の心性を象徴するような2つの対極的なパースナリティが与えられています(たぶん脚色でしょう)。
婉容はヨーロッパ人の家庭教師の薫陶を受けた才媛で、当時の王族女性としては際立って自立心に富んでいます。対して、文秀は旧陋な慣習に埋没した保守的な女性として描かれています。
いずれにせよ、溥儀のパースナリティからして、幸福な結婚生活は望むべくもなかったようです。
映画にあるとおり、溥儀は外国への脱出を可能にする条件として結婚を承諾しただけで、相手はだれでもよかったのです。結婚帯妻は男性の人格的独立の条件だったからということで。
だが、結婚しても傀儡はあくまで傀儡、禁城に幽閉される立場に変わりはなかったのです。
夢破れた溥儀は、宮城脱出を試みるのですが失敗しました。