ラストエンペラー 目次
見どころ
あらすじ
世界史の文脈のなかで
最後の皇帝の人生回顧
宣統帝溥儀 死にゆく帝国
中国の帝国レジーム
「分封建国」
奇妙な政治体=帝国
文字情報と官僚制
帝室と宦官
帝政の権力構造
皇帝権力の基盤
装置としての皇帝
最後の帝国「清」
遅れてきた帝国
ヨーロッパの勃興と…
ブリテン…東インド会社
アヘン戦争
崩壊する帝国
帝政の最期
辛亥革命と帝国の滅亡
「遺骸」としての宮廷
残骸宮廷と溥儀の心性
茶番劇の復位
分裂する人格
政変、追放、そして亡命
ソ連の俘虜、そして東京裁判
中国への送還
収監と改造教育
「文化革命」との遭遇
映画制作の「背景」を探る
中国と日本との皮肉な関係

■帝政の最期■

  清王朝の末期に政治および軍政の表舞台に登場したのは、袁世凱でした。
  過去の学問をなぞるよりも新たな現実への対処や挑戦に意欲と能力を発揮したのが袁世凱です。彼は進士への及第(科挙試験)に続けて失敗して、立身出世の手段として軍人への道を選んだようです。
  彼は、北洋軍の李鴻章のもとで、軍組織と行財政組織の近代化の必要性と手法を学んだのです。

  袁世凱やその同輩たち、その後の世代の官僚たちは、死滅しつつある清朝の帝政に焦燥しながら、対岸の日本での明治政権による変革・試行錯誤を注視していました。その日本は、朝鮮支配をめぐる清と日本の戦いで、北洋艦隊を駆逐し圧勝しました。
  日本は、幕藩王政から天皇制へと独特の王政を維持しながら、議会開設と中央集権的政府を組織して、立憲レジームによって国民的統合と近代化=西洋化に成功した、と彼らは見ていました。
  ところが、海洋に隔てられた列島で、ほどほどの地理的規模の日本と、中国の大陸的規模の帝政とでは、統治構造と政治・行政・軍事のレジーム、つまり地政学的環境は決定的に違っていました。
  しかも、幕藩王政のなかで日本は16世紀以降、ユニークな近代化を達成していたのです。ヨーロッパの文化やテクノロジー、制度をただちに受容する素地ができていたのです。

  さて、戊戌政変を巧みに切り抜けた袁世凱は、やがて直隷総督(首府の帝室直轄省の長官)と北洋大臣(渤海湾沿岸の港湾と貿易を管理する長官)を兼務して、この地域一帯に独自の行政権と軍政を打ち立てていきます。

  一方、孫文たちは南部で共和制革命に向けた準備活動を組織化するのですが、政治運動の色合いは、運動の大衆化につれて「満州族に対抗する漢族の権威回復」という安直なスローガンに影響されるようになっていきました。残念なことに中国に限らずどこでも、「一見わかりやすい」安直な政治的スローガンほど大衆の意識に浸透しやすいようです。
  つまりはこれも、北部に対する南部および中部沿岸部の「地方的な革命運動」という限界をもっていたのです。


  1908年、光緒帝が崩御、西太后も薨去。
  溥儀が新帝に登壇しましたが、宮廷は溥儀の父を摂政として、かなりうろたえながら彌縫的な改革を打ち出しました。改革の目玉として憲法大綱と議会開設のプログラムを公表したのですが、有力諸階層の支持を固められませんでした。
  そもそも、変革を担う階層はいなかったし、政権は民衆をまったく問題にしていなかったのです。中国には、経済的に有力な諸階級や民衆を政治的に組織化する運動や集団(政党)はなかったのです。
  もとより、統治に関与させるため市民権を付与する階層(=国民)をどこまでにするかという構想を持ち合わせていません。日本の明治維新のうち都合のよいところの文字面だけ模倣しただけでした。

  このとき、袁世凱は中央政府の閣僚から放逐されてしまいました。一方で、新たな閣僚団には、西太后が権勢を揮っていたときの閣僚・高官や皇族が据えられました。そのため、変革・改革への期待はすっかりしぼんでしまいました。
  そして、各地で富裕階層や知識人が担う、議会の早期開設を求める運動が活発化していきました。

  とかくするうちに1911年、なし崩しともいえるような「辛亥革命」がやって来ました。
  だが、革命といっても、中国全域を巻き込んだ変革運動ではありません。19世紀末から各地方で断続的に繰り広げられた地方的規模での叛乱や変革運動、新秩序形成の流れの一環であるにすぎません。

  一方、この年の10月10日、武昌で「新型軍」(これまで改革のなかで袁世凱の主導下でつくられた近代的な組織装備を備えた軍隊)の部隊が叛乱を起こしました。
  この軍は、従来のように皇帝に直属する軍(満州八旗・漢八旗)とは別の、政府が指揮する軍で、軍政改革を進めてきた袁世凱の影響が強かったのです。
  その頃、とみに清朝打倒の思想が浸透している組織でした。
  帝国各地の要衝には新型軍が配置され、またそれなりに横断的な連絡網と連帯意識をもっていましたから、武昌での蜂起は、清朝政府とって深刻な危機となりました。
  この蜂起直前には、四川省で暴動が起きていました。
  武昌叛乱をきっかけとして、各省、各地方では清朝政権からの独立をめざす動きが活発化していきました。
  しかし、政府はなすすべがなく、新型軍への影響力をもつ袁世凱を閣僚に復帰させました。なんとか事態を収拾させるためでした。
  袁は巧みに叛乱軍を追い込み包囲したのですが、殲滅作戦には入らなかったのです。
  叛乱軍と妥協・取引きし、彼に好意的な新型軍の勢力を温存し影響力を保持することで、自分の権力を拡大して政権を支配するためでした。

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