ところで、ブリテンや合州国、ドイツ、ロシア、日本などの列強外交団は、中国各地での蜂起や叛乱を収めることができるのであれば、清朝が帝政から立憲王政に転換するのは許容するつもりでした。あまり望ましくないのですが、広大な中国が分裂し混乱するのは避けたかったようです。属領化や植民地化は進めたいが、統治のために膨大な軍事費を出費するのは避けたいということでしょうか。
ところが、12を超える省(地方政府)が清からの独立を宣言する事態になると、列強は介入の意図を示唆して圧力を加え、袁世凱と交渉を進めました。列強諸国は、停戦と皇帝の退位ないし廃位、総統選挙実施を求めました。
スローガンどおりの「中国の近代化」「民主化」が目的ではない。むしろ、政権に民衆の要求が反映され、中国への収奪に歯止めをかけられることを恐れていました。
列強のもくろみは、従来の権益を維持し、さらに拡張するための交渉相手として対処しやすい( accountable )政権を求めたからです。
他方、南京とその一帯では1912年1月、共和革命派は清朝の支配を廃絶し、孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府の樹立を宣言しました。
ところが、政権樹立宣言をしたものの、革命派はそれほど組織化されてもいなければ、政権構想も備えていませんでした。つまり、単なる幼弱な地方政府でしかなく、外部からの軍事攻撃には耐えられそうもなかったのです。
外部の力とは、言うまでもなく袁世凱が率いる北洋軍閥と列強諸国家です。
孫文は、始まってしまった改革の成果を保存するために、清皇帝の廃位と「共和制」が実現されることを条件に、臨時大総統を辞任して、共和制中国の大総統の地位に袁世凱が就任することを認めました。「裏取引き」です。
かくして、清朝は滅びました。
ところが大総統になった袁世凱は、自分が新たな王朝の皇帝となる野望を抱いたのです。
袁の帝政腹壁の野望を知った日本は、支援と引き換えに「21か条の権益要求」を突きつけ、強烈な圧迫によって受諾させます。けれども、袁の帝政腹壁の願望に反対する広範な勢力は、反対運動を繰り広げます。
反対派が多数派だと知ると、袁は閉塞に陥り、苦悩のうちに病臥に伏したまま死亡します。
清帝国は死滅しました。が、何の権力ももたない宮廷=禁裏は残存し続けます。禁城の内部で「自己完結した装置」としての溥儀の生活は、多少は貧弱になったものの、続いていきました。
というのも、中国はひどく分裂し、また列強諸国家によっていくつもの勢力圏に分割されていたため、王朝の残滓を完全に一掃するような強力な政権が成立しなかったからです。
「中華民国」=共和政権の権威が有効におよんでいたのは、主に北京および直隷区と北洋、山西など、袁世凱の勢力圏だけで、これに政策によっては同盟する孫文派の南部地域(武昌から南京におよぶ地帯)くらいのものだったのです。
さて、帝政が廃絶され自らの帝位が剥奪されたことを、溥儀は知らずにいたようです。禁城を訪れた弟、溥傑によって、そのことをからかい半分に教えられました。
おそらく、溥儀の世界観や人生観はいったんここで崩壊し、特異な「もがき」「悪あがき」の人生が始まることになったのでしょう。