映画「ラストエンペラー」に描かれた溥儀の人生は、思想改造の成果を受けて、溥儀が記述(表現・脚色)した経緯に沿って再構成されたものです。
ここからは、第2次世界戦争後の物語になります。
ソ連の捕虜となった溥儀ではありましたが、すでに幼時の頃から、自分が置かれた権力空間が要求する役割・振る舞いを「そつ」なくこなす能力を磨かれていたようです。
幼年期から青年期までは清帝国の宮廷装置のなかで、帝国滅亡後は主に日本の軍部の権力のもとで。そして戦争後は、ソ連や中国共産党の権力のもとで、溥儀は期待される役割を演じます。それはまた人間改造(自己省察・自己批判)の過程でした。
やがて、「東京裁判」(連合軍極東軍事法廷)への証人としての出廷にあたっても、ソ連や連合軍の要望がどこにあって、かつ、将来の自分の立場の確保のためにどう振る舞えばよいかを、短時間で判断したに違いないと思われます。
法廷では、溥儀は関東軍に強制されて傀儡皇帝の地位につかされた、という立場で証言し、また自分の側室夫人が毒殺される(これは証拠からして、誤解であったらしい)などの日本軍による横暴の犠牲をもこうむった旨を主張しました。
ただ、証言の全体としては、「でっち上げ」をしたわけではなく、現にあった事実のなかから、自分にできるだけ有利に選別して「全貌を再構成」したにすぎないともいえます。
ここでも、彼は力の優越する側の欲するように演技したのです。かつて、満州帝国で日本軍が権力の座にあったときに、それに迎合したように。「場の力関係」に適応する、というのが溥儀の本性なのかもしれません。
ハバロフスクの収容所に収監された溥儀には、やがてソ連当局から、侍従や宮廷官などの従者にかしずかれる生活環境(規模は縮小されたが)を維持することを許されました。
ソ連は、歴然たる階級社会(ヒエラルヒー社会)でしたから、収容所にも「上級捕虜」専用の収容所がありました。溥儀はそこに収容されたのです。
そのなかでも溥儀は、着衣や身の回りのことを自らすることはなく(そもそも、そういう意識というか意欲が起きないように育てられたままだった)、従者たちにやらせ続けました。
そして、そのさいの小さな瑕疵や不満を理由に、自分の欲求不満のはけ口として、従者たちを苛みました(一方的な叱責や罵倒)。従者たちもまた、溥儀にはただただ従属する生活習慣が染み付いていました。
だが、ソ連の収容所生活も、1949年に中華人民共和国が成立すると、終わりが迫ってきました。溥儀は、中国送還を恐れ、ソ連永住を願い出ましたが、却下されてしまいました。50年7月、ついに溥儀はハルビンに送還されます。
身柄が中国に移管されれば、溥儀を筆頭とする満州国「支配者」は、侵略者=抑圧者に同調・協力した「戦争犯罪者」として扱われるでしょう。ソ連では単なる「抑留者」だったのですが。
溥儀たちは、厳しい糾問や断罪、そして処刑を恐れたのです。
映画では、溥儀は国境の駅の手洗い所で手首を切って自殺を図る場面が描かれます。このシーンでは、溥儀の自傷はあまりひどいものではなく、狂言ではないにしても、むしろ「現実逃避」に近い衝動として描かれているように見えます。
ところが実際には、新中国の指導部は(新国家建設への気概と誇りをもっていたから)寛大で理想主義に燃えていました。
その頃には、まだ共産党内部のヒエラルヒーもつくり上げられておらず、国家装置の組織化も始まったばかりで、党や国家の内部で苛烈な権力闘争が吹き荒れる条件がなかった――そういう背景があるかもしれません。まだまだ理想を純粋に信じ追求していた頃の共産党の姿です。しかし、統治し支配する組織となった共産党はまもなく大きく変貌していくことになります。
共産党指導部としては溥儀一行の人間改造・思想改造について、それが共産党の指導と権威の政治的宣伝になるというしたたかな計算もあって、大きな期待・希望を抱いていたようです。
むしろ、溥儀に対して深い憎悪と復讐心を抱いていたのは、かつては清王朝の抑圧や搾取・誅求、のちには満州帝国による支配と収奪を体験していた一般民衆です。
溥儀一行の確保受け入れにさいして、中国指導部は憤る民衆から溥儀を守るために、大規模な治安軍を鉄道沿線や駅の周囲に配置していました。