ヨーロッパでは、経済活動の文書記録による数量的把握技能やそれにもとづく課税というものは、古代ローマ帝国で生まれ形成され始めましたが、発達しないうちに帝国が崩壊したようです。
その後ヨーロッパでは、長い中世を経て、最も早い北イタリアでようやく13世紀頃に、そのほかの地域では16世紀に、ようやくそういう仕組みが発達し始めました。
ではなぜ、中国にはそれほど早く「近代的」ともいえる制度や技術が発達したのでしょうか。それは文字文化、文字文明(文字情報による支配というべきか)が生まれ、成長したからです。
そもそも古代中国文字は象形ないし表意文字が始原でしたから、文字に呪物的性格を与えて、権威の誇示や伝達に用いていたこともあるようです。
文字に習熟し使いこなす能力を、帝国の版図全体にわたって、上級官僚や富裕な特権身分への上昇の条件として制度化し、統治システムを組織する手段としたのです。
つまりは、推挙=選抜制(科挙制)をつうじて、中央・地方の行財政官僚の登用と序列づけの中心的制度にしたのです。そして、文字に記録によって、各地の農業の生産高や穀物の種類、手工業特産物の生産と交易などをめぐる経済活動の状況を徴貢・課税基盤として把握したことが決定的でした。
もとより、ときには帝国の中央政府の権威が弱体化し、あるいは没落・衰滅し、帝国の版図が軍事的・政治的に分裂し、あるいは地方軍閥・豪族が分立割拠・対抗し合う状況も、しばしば起こることもあるでしょう。
けれども、そのなかの有力者が広範囲でふたたび政治的・軍事的統合を進めようとすれば、中央から統制しうる行財政装置が不可欠になり、必ずこの官僚登用システムを復旧し、これに依存するしかなくなるのです。
いかなる易姓革命を経ようと、帝国レジームの神経体系や筋骨体系として機能する「価値中立的な」ないしは歴史貫通的な統治装置なのです。
これが、帝国レジームの2つめのエレメントです。
帝政の3つめのエレメントとして、中央宮廷、とりわけ後宮と禁裏の運営と政策づくりに介入する宦官(去勢された男性文官)の階層組織があります。
彼らは、皇帝とその妻たち、側室たちに日常的かつ直接的に接し、情報を提供したり影響力を行使したりすることで、帝国統治の政策に絶大な影響力をおよぼしました。そして、帝室財政に寄生して、さまざまな収益権・分配権を保有することができました。
この官僚徴募・登用制度と多数の人員からなる宮廷官房組織も、ヨーロッパが近代初頭になってはじめて獲得することができたものです。
もちろん、これら古代中国の制度・装置の効果や情報伝達の量と速度は、近代初頭に比べれば、かなり劣るかもしれませんが、なにしろ古代から中世初頭にかけての話なのです。
とにかく、中国は統治組織と技術をきわめて早い時代に獲得した。が、「固有の意味での国家」を形成することは20世紀後半までできなかったのです。不思議なことではあります。
ヨーロッパではローマ帝国が解体したのちにふたたび世界帝国としての帝国レジームが現れることはありませんでした。
帝国を模した政治体はいくつか出現しましたが、実態は、400から600にもおよぶ多数の都市や王国、侯国が分立割拠する状況が長らく続き、やがてこれまた多数の王権国家さらには国民国家が並存する政治的・軍事的構造となりました。
フランク王国はメローヴィング王朝やカローリング王朝のもとで――やがてその法観念を継承したドイツで――ローマの栄光を模倣して「帝国」を名乗る時期もありました。16世紀にはエスパーニャ王国ハプスブルク王朝がやはり帝国を名乗りました。
しかし、内実は政治的・軍事的統合の欠如であって、地方ごとの分立割拠状態を「帝国」という法観念で表象するだけのものでした。
そして、帝国観念を引きずり続けた地域には、国民国家の形成には大きな困難がともなったのです(エスパーニャとドイツ・中央ヨーロッパ、バルカン半島)。