ラストエンペラー 目次
見どころ
あらすじ
世界史の文脈のなかで
最後の皇帝の人生回顧
宣統帝溥儀 死にゆく帝国
中国の帝国レジーム
「分封建国」
奇妙な政治体=帝国
文字情報と官僚制
帝室と宦官
帝政の権力構造
皇帝権力の基盤
装置としての皇帝
最後の帝国「清」
遅れてきた帝国
ヨーロッパの勃興と…
ブリテン…東インド会社
アヘン戦争
崩壊する帝国
帝政の最期
辛亥革命と帝国の滅亡
「遺骸」としての宮廷
残骸宮廷と溥儀の心性
茶番劇の復位
分裂する人格
政変、追放、そして亡命
ソ連の俘虜、そして東京裁判
中国への送還
収監と改造教育
「文化革命」との遭遇
映画制作の「背景」を探る
中国と日本との皮肉な関係

■装置としての皇帝■

  帝国レジームが発達するにしたがって、皇帝の権威を飾り立て誇示する制度や儀式、格式(イメイジ)は肥大化していきました。
  むしろ、中央政府を担うさまざまな利害集団のなかで優位を得た集団が、自らの利害にかなう帝国制度の一環として、1つの装置、道具、いや操り人形としての皇帝のパースナリティ(役割)を捏ね上げていくようになります。

  つまりは、一個の「世間並みの人間」として自立的な思考や願望、判断をおこなわないように、乳児期、幼児期、少年期をつうじて「育成」「教育」していくことになります。
  いつのまにやら非人格的な「皇帝」の役割を無批判・無前提に受け入れる人間をつくりあげていくわけです。あるいは「人間の抜け殻」を。
  たとえば、皇帝や君侯は、食事や着替え、排便などの始末を自分ではやらないように育てられます。彼らは、衣服も自分で着られなければ、靴も自分の力で履けません。いや、自力で着よう、履こう、排便の始末をしようという発想や反応、意欲がそもそも起きないような人格につくられてしまうのです。
  世話係や側近たちがやってくれるのが当然と思う意識・心性が培われるのです。それゆえ、彼らの前で裸体でいることも、排便することも、自分の配偶者と性交することも、少しも恥ずかしくない、そういう心性・感性の人間になるのです。

  それでも教育係の影響によっては、思春期や反抗期を経て「自立」を求めるようになった皇帝が、成人後にあるいは壮年期以降になって、自分の意のままに側近や宦官を入れ替えて親政や専制独裁を企図することもありました。その場合に皇帝の統治を支え導く思想は、幼年期から青年期、壮年期までの環境のなかで「つくられた」思想なのです。

  この映画でも、溥儀は自分で着替えもできないし、靴の紐も結べない様子が如実に描かれています。それでも、ヨーロッパ人の教育の影響で禁城の外に逃げ出したいとか、自分の思うように統治してみたい、という願望はもつようになっていきました。


  これは、日本の天皇制にもいく分かは当てはまるでしょう。彼らは自分の意思で挑戦し失敗する自由がないのです。優雅な生活は保証されているのですが。
  ときの政権や側近たちは、レジームの安定に役立つ装置としての君主を求めているのです。

最後の帝国「清」

  さて、17世紀以降にアジアに存続していた諸帝国(オスマン、ムガール、清)は、世界市場をめぐる争奪戦を繰り広げ、軍事テクノロジーを異様に発達させた西ヨーロッパ諸国家によって蹂躙される運命にありました。

■遅れてきた帝国■

  16世紀の終わり近く、中国北東部(満州)に女真族の王ヌルハチがその地域の諸部族を統合して強力な軍隊=政権をつくりあげました。その後、ヌルハチはモンゴル地方も支配することになります。
  北方のこの広大な王国は、中国本土の文明と文化に深い憧憬を抱き、17世紀初頭には国号を「後金」と称することにしました。この憧憬はまた、女真族連合王権の権威と支配を南方に広げて、中国本土を統治しようとする権勢欲をも内包していたのです。

  後金は、南方に支配地(勢力)を拡大して、衰退する明帝国の権威を脅かすようになります。1636年には国号を「清」に改めました。そして、その10年後には、明に取って代わって中国本土の北半分ないし大半を支配するようになります。
  この世紀の後半には、康熙帝の治下で中国全土を支配し、さらに外蒙古や中央アジア、西域にまで軍を派遣し影響力をおよぼすようになったのです。
  清帝国の隆盛および盛期は、その後、雍正帝、乾隆帝の代まで、およそ1世紀以上(18世紀末近くまで)続きました。

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