清朝の帝政が内部から弛緩・麻痺し、泥沼の崩壊への道を転げ落ちていたのは、まさにこのような時期でした。
典型的な事態は、アヘン戦争とその帰結でした。
東インド会社は、インドの収奪で獲得した莫大な貴金属を中国で茶(ヨーロッパと北米で高価に販売するための人気商品)の買い付けのために放出していました。対中国貿易では巨額の赤字を計上していたのです。
その資金を取り返すために東インド会社は、アヘンを密貿易して中国沿岸部で販売していました。中国の犯罪組織や悪徳商人を利用して、アヘンを売りつけていたのです。
こうして東インド会社が獲得した貴金属はロンドンに為替送金され、そこでシティの貿易業や金融業、さらに製造業の資本としてブリテン本国の経済活動を加速したのです。優雅なブリテン王室の金庫は、東インド会社の「世紀の事業と」しての麻薬密輸とその収益の世界的な送金システムのおかげで潤っていたのです。
その結果、巨額の貴金属が中国から流出し、そのうえ、アヘン中毒が蔓延することになりました。
それは中国沿海都市部で犯罪や密貿易の跳梁を招き、清朝の統治秩序を腐らせ掘り崩していきました。
旧弊な慣例に依拠する既存の地方政府は無力で、イングランド艦隊の威力に怯え、役人たちはあろうことか、ブリテン商人とそれに従属する中国商人の賄賂や運上金によって買収されていました。
麻薬と密貿易の取締りのために、清朝政府は欽差大臣(林則徐)を派遣し、武力をもってブリテンに戦いを挑みました。が、軍事テクノロジーの差を見せつけられ、壊滅的打撃を受け、巨額の賠償金を支払う羽目になったうえに、香港と南部港湾地帯を奪われてしまいました。
この事件以降、対外的にも、対内的にも清朝中央政府の権威と統合力は急速に解体していきました。
数多くの民族と多様な気候風土・地政学的条件を内包する広大な中国。それをどうにか統合していた清朝の帝政レジームに大きなヒビが入り、崩れ始めました。
各地方は、それまで自分たちを抑えつけ征圧していた仕組みが解体していくのを知ったのです。それはまた、ヨーロッパやアメリカ、ロシア、日本など、外部の侵略者から、中国の各地方を防護していた権力と権威も失われていくことでもありました。
臣従・服従と引き換えに防衛サーヴィスを提供していた皇帝政府=帝国が当てにならなくなったのです。
そこで、地方政府や地方有力者の帝国からの自立、すなわち分裂と不服従が始まりました。
清朝宮廷が地方=省に派遣した長官や大臣が、地方の行財政機構を掌握し、中央政府とは別の独自の軍事力や政策、徴税制度をつくり上げる動きが目立ち始めました。ただし、中国の文化地支配を虎視眈々とねらっている欧米列強諸国家の眼の前で、中国は分裂していくことになったのです。
湖西・湖南・逝江省一帯から四川省にかけての地域では、1850年から60年代半ば過ぎまで「太平天国」の叛乱・独立闘争が繰り広げられました。
清朝中央政府でも、旧弊な統治手法を改変するため、同治帝と開明派官僚たちによる「洋務運動」が企図されたのですが、旧弊な帝政の桎梏のなかで挫折しました。
統治システムの変革は、結局のところ、旧弊な行政機構や支配装置の中核的な部分を破壊することなしには、達成されないということなのでしょうか。
いずれにせよ、守旧的な体質にとどまる宮廷は、変革を拒否して中央政府の権威の立て直しを怠り、こうして諸地方を統合し、帝国を防衛する役割を果たすことはできなかったのです。帝国とは「近代国家」とは相容れない仕組みなのです。
こうしてみれば、諸地方(各省)での軍閥の形成や太平天国の叛乱は、中国を分裂させる要因としてではなく、すでに清帝国の統合秩序の大部分が崩壊した状況のなかで、各地方(省)レヴェルにおける新たな秩序形成の運動として理解しなければならないでしょう。
軍閥や民衆叛乱を分裂=秩序破壊要因と見る「王朝史観」――背後で「皇国史観」につながっている――は、投げ捨てた方がいいでしょう。