ここでは、1494年以降、イタリアがフランス王権とエスパーニャ王権という外部の強大な権力の覇権闘争の舞台となり、翻弄され、分裂したまま従属状態に陥っていく歴史的経過を瞥見する。
焦点となるのは、フィレンツェ。時期は、1510年代半ばまで。
そして、近代政治学・軍事学の礎を築いたマキァヴェッリの視点から、この過程がどのように見え、なにゆえに、彼があのように透徹した視座を手にすることができたのか、それを考えてみる。
さて、この過程は、マキァヴェッリ自身にとっては、苦悩に満ち、波乱に富んだ時期だった。
フィレンツェの外交官として、状況の厳しさを知悉しながら奮闘したけれども、追いつめられ、失意のうちに失脚。さらにはひどい迫害を受けて、いわば社会と自己の人生にほとんど絶望しかけたのだ。
この苦難に満ちた経験が、マキァヴェッリをして、体裁ぶりや衒学に陥ることなく、徹底的に批判的かつ歴史主義的な方法論、分析視角を打ち立てさせた客観的な状況なのだろう。
とはいえ、彼の脳裏には、君主たちによる国家形成競争が展開するヨーロッパのなかで、イタリアに国民的=統一的な政治体を生み出すためには、何が必要なのかという実践的視点が、いつも強く保持されていた。
1492年4月、フィレンツェの君主=宰領、ロレンツォ・メーディチが死去した。この都市国家の統治権力は、息子のピエーロに継承された。
この年の8月、バレンシーアの大富豪貴族、ロドリーゴ・ボルジアが教皇に選出され、アレクサンデル(アレッサンドロ)6世となった。
このとき、メーディチ家とボルジア家とは、マンガ『チェーザレ 破壊の創造者』にあるとおり、同盟を結んでいた。
だが、盟約を結びながらも他方では、互いに隙あらば、自分の支配地を拡大して、ロマーニャあるいはトスカーナに領地を拡大し、エミーリァやロンバルディーアにさえ勢力を拡張しようともくろんでいた。相手の影響がおよんだ地方さえもわが手に入れようと狙っていたのだ。
そして1494年、腹黒い新教皇の口車に乗って、イタリアに行軍してきた夢想家、いや野心家のシャルル8世。ヴァロワ家のフランス王だ。
この男は、見栄えが立派な軍を率い、ナーポリ王国の宗主権を主張して、ほとんどイタリア勢力が無抵抗のうちに、あたかもパレイドをするようにイタリア半島を南下した。
ヴァロワ家は、フランスからどうにかプランタジネット派の軍を追い払ったものの、直轄の王領地は小さく、有力諸侯の同盟に支えられて王位を維持しているだけだった。だから、王領地や王家の権威を拡張しようと焦ってもいた。
当時の観念としては、王領地を――軍事的支配が難しい遠い飛び地のような――フランス域外のイタリアに保有しても別段構わないと考えられていた。
むしろ王国域内で直轄領地を拡大しようとすると地方領主諸侯と敵対して、王権を支える同盟に分裂と敵対を持ち込むことになるから、その方がはるかに難しかった。