第4章 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
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さてヨーロッパでは、ブルゴーニュ、フランシュコンテ、ネーデルラントを領有することで、ハプスブルク王朝はフランス王国を取り囲むことができたかに見えた。
1529年以前にはイタリア戦線で総数3万を超えなかった兵力は、1536年の対フランス戦では6万、1552年にはヨーロッパ全域で帝国が動員した兵員は15万になった。これらの戦争費用はもっぱらエスパーニャの王室財政からまかなわれた。この27年間(1556年まで)に王室収入は3倍に増えたが、増大する戦費には追いつかなかった。王室はずっと先の歳入分まで担保にして、フッガー商会やジェーノヴァ商人などから高利の借金をした。王室の債務は膨れ上がり、ついには57年には財政破綻(支払い停止の宣言)に陥った。
その前年、失意のカルロスは退位してフェリーペがエスパーニャ王位を継ぎ、神聖ローマ帝国領以外の領土を継承した。ハプスブルク王朝はエスパーニャとオーストリアに分割された。1559年にはカトーカンブレジの講和で旧ブルゴーニュ公領とイタリアをめぐるフランス王権との戦争に決着をつけ、フランシュ=コンテとナーポリを獲得した。エスパーニャはイタリアを勢力圏に取り込み、フランスをイベリア半島から駆逐し、教皇庁を掌握した。1571年のレパント海戦でオスマントゥルコを撃退し、トゥルコの進出を抑えた。
さらに、1580年にポルトゥガル王エンリーケが没すると、フェリーペはその王位を継承してポルトゥガルを併合した。この併合は、ポルトゥガルの広大な海外領土や植民地、つまりアジア、アフリカ、アメリカの支配領をエスパーニャに加えた。その結果、エスパーニャの海外領土は最大になった。だが、それだけ敵が増えて軍事的に防御すべき戦線・領域が拡大し、それに見合った軍事的支出も増大したということでもあった。
16世紀後半、ネーデルラント北部諸州が反乱を起こした。エスパーニャ王権は反乱鎮圧のための軍を送ったが、ヨーロッパでのエスパーニャの勢力拡張を恐れるイングランド王権との対立が深まっていった。この戦争では、結局、エスパーニャはカトリック派の多いネーデルラント南部10州を確保したが、独立派のユトレヒト同盟諸州を失った。しかも、独立派連邦と同盟したイングランドの艦隊(私掠船)の攻撃によって、エスパーニャからネーデルラントへの航路と大西洋横断航路で相当の通商破壊を受けた。
1588年、反撃のために派遣したアルマーダ艦隊は、撃退されてしまった。海軍力で優位に立ったイングランドによる通商破壊によって、アメリカ植民地との貿易航路は、しだいに虫食い状態になっていった。
しかも、域内の収奪と借款によってまかなわれた王室の資金の多くは、軍事費として支払われていた。兵器や軍事物資は域外商人から調達した。また、新大陸から獲得した財貨は、植民地経営のための物資(衣料、食糧、金属製品、船舶材料など)を調達するために流出し、また王室から貴族(官位を得た富裕商人)に支払われた年金は輸入された奢侈品の代金に回された。
そのため、結局のところ、大部分が敵対するネーデルラントやイングランド、フランスの商業資本の手に流れ込んでいった。域内製造業の保護育成や諸都市の要求を軽視した代償は重かった。エスパーニャ王室から最大の収益を引き出していたのは、軍事的・政治的に敵対するネーデルラントとイングランド、フランスの商人たちだった。とくにユトレヒト同盟の商人からは、建艦に必要なバルト海地方の木材やタール、ピッチを大量に買い入れ、ネーデルラント商業資本のバルト海貿易での最優位の後押しをしていた。
エスパーニャの帝国政策は、王室財政を疲弊させ、域内での商業資本の成長を妨げ、域外商人の力を、とりわけ敵対する地域の力を増大させることになった。
とはいえ、外見では新大陸やアジアから送られた財貨によって、エスパーニャ王室の強引な政策がまかなわれていた。とりわけペルーの銀山の発見と開発は、セビーリャへの銀の流入を飛躍的に高めた。この銀地金が、効果的な行財政システムの構築が停滞していたエスパーニャ王室――アラゴンやイタリアでは増税ができなかったから財政は逼迫していた――に歳入をもたらした。
しかし、17世紀中葉までヨーロッパ全域にわたる戦線での戦費の重圧はカスティーリャだけにのしかかり、その経済構造を疲弊させていた。アメリカからの税や賦課金として直接王室に流入した貴金属は、王室財政の約20%から25%を占めたにすぎないという〔cf. Anderson〕。歳入不足は、教会から上納された賦課金、さらにフーロス juros という公債からも補填された。都市の商人も王権から収奪されたが、取引税などの諸税――alcabala, servicio――は、さなきだに貧しい都市と農村の民衆に重くのしかった。
貿易では、輸出入の決済差金としてアメリカから各都市の商人の手元に流入した貴金属は、都市部の課税基盤を支えていた。だが他方で、粗雑な行財政機構しかない王権には把握されない私的な取引きや送金によって流入した貴金属の量は倍以上あったという〔cf. Anderson〕。フーロス債による資金集めが功を奏したのも、王権の力というよりもこうした植民地から送られて域内商人の手元に蓄積された財貨の投資先がほかにないという事情が背景にあった。こうして集積された資金が、域外で軍事行動や外交的策謀に費やされ流出していった。
16世紀末に王位についたフェリーペ3世の治下では、寵臣レルマ公家門が宮廷を専断した。王宮をバリャドリードに移し、カスティーリャ顧問会議やトレード大司教といった要職を家門で独占した。17世紀には、それまでの諸王が強引に進めた帝国政策や戦争政策によって王室財政は著しく疲弊していたため、対外政策は手詰まりになっていた。おりよく、イングランドもフランスも王室家門の交代、王政の再編期であったため、エスパーニャ王権の柔弱な外交でもしのぐことができた。1609年には独立派ネーデルラント連邦と休戦協定を結んだ。
こうして、ヨーロッパ王権外交の次元では平穏が回復したかに見えたが、アメリカ大陸も含めた海外「エスパーニャ帝国」は北西ヨーロッパ商業資本ブロックによって軍事的・経済的に侵食されていった。イングランドとネーデルラントによるカリブ海やボルトガル領アメリカ植民地、アジアの拠点への攻撃は強まっていた。
1621年、危機のなかで即位した年若いフェリーペ4世の摂政オリバーレス伯は、改革総評議会の活動をつうじて無能な官僚の罷免、奢侈の禁止、コンベルソ差別の撤廃などを進め、王権の威信回復をめざした。
その努力は対外政策にもおよんだ。神聖ローマ帝国ハプスブルク家の権益擁護のために、エスパーニャ王権はドイツでの三十年戦争にも介入した。ブラジルやインドネシア植民地で執拗な攻撃をしかけてくるネーデルラントに対して、1621年に戦争を再開した。
だが、幾分かの失地回復もつかのま、ネーデルラントの艦隊による攻撃を受けて、新大陸への通商航路のリスクは高まった〔cf. 増井〕。東南アジアでは、強大な軍事力を備えた連合東インド会社(VOC)の攻撃で、次々と拠点を失っていった。
三十年戦争
三十年戦争では、はじめのうちはハプスブルク王朝が優勢だったが、最終的に全戦線で追いつめられていった。むしろエスパーニャ王ハプスブルク家が、優柔不断で戦況が振るわないオーストリアを支援する形で介入して、戦線を全ヨーロッパに拡大したといえる。
1618年、オーストリア・ハプスブルク家領ボヘミアでの反皇帝派貴族・都市・農民団体が蜂起した。反乱派は、皇帝フェルディナンドをボヘミア王から廃位して、プファルツ選挙侯フリードリヒを王位につけた。フリードリヒの後ろ盾はイングランド王だった。中央ヨーロッパでのプロテスタント勢力を撃破し、皇帝の権威を回復し、ラインラントからフランデルンおよびイタリアへつながる回廊を確保するため、今度はエスパーニャ王室が主導権をとって戦争をしかけた。
こうして、戦線は一挙に拡大し、ヨーロッパ全域の諸王権が拮抗する状態になった。スウェーデン王権も介入してきた。エスパーニャ王権は1625年、各戦線で総勢30万の兵力を動かした。ボヘミアの身分制評議会を破壊してプロテスタント勢力を壊滅させ、ブレダ占領でネーデルラントを駆逐した。他方、スウェーデン王軍はリーガ(カトリック同盟派)を追いつめたが、34年ネルトリンゲンで撃退された。
だが、とりわけフランスのブルボン王朝にとっては、王国の東西両側でハプスブルク王朝の勢力が強化される状況は回避しなければならなかった。それまでにもフランス王権は、ドイツのプロテスタント派諸侯や反皇帝派への資金援助や傭兵隊の派遣をおこなっていた。ついに35年、リシュリュー(つまりカトリックのフランス王権)はエスパーニャに公式に宣戦布告した――布告なしの攻撃はすでに数年前から始まっていたのだが。
ここに、カトリック対プロテスタントという宗教戦争という形態をまとっていた戦争が、主権国家――正確に言えば国家を形成しようとする王権――どうしの利害をめぐる戦争という形態を明白に帯びることになった。
1638年、エスパーニャはフェンテラビアでフランスを破り、フランス王権のナバーラへの介入を退けた。だが、翌年、ダウンズ海戦でエスパーニャ艦隊はネーデルラント艦隊によって撃退され、イベリア沿岸からフランデルンにいたる海路が断たれた。すでに、北イタリアからフランデルンへの陸路が閉ざされていたため、エスパーニャは前線に兵員や物資を補給する輸送経路を失い、劣勢に立たされることになった。43年には、エスパーニャ軍はロクロワでフランス軍によって壊滅的な打撃を受けた。神聖ローマ皇帝軍も敗北を重ねていた。
強引な政策で失敗続きのオリバーレスは、ついに失脚した。両ハプスブルク王朝は講和・妥協への模索を始めざるをえなかった。1648年の講和条約でエスパーニャはネーデルラント連邦の独立を認めた。同年のヴェストファーレン条約は、ユトレヒト同盟の独立をヨーロッパ諸国家の勢力均衡の条件として認めた。1659年のピレネー条約では、フランデルンとカタルーニャのルシヨン伯領をフランスに引き渡して講和した。妥協のとどめは、フェリーペ4世の王女とルイ14世との政略結婚だった。エスパーニャの王族にブルボン家系が加わった――ブルボン家はエスパーニャ王位の請求権を手にしたことになる。。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成