原題は、 The Dogs of War (戦争の犬たち、戦乱のにおいを嗅ぎつける者ども)。
この「戦争の犬たち」という語は、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」のセリフ、「さあ、戦争の犬たちを解き放て!」から借用したものだという。
そこでは「戦争の犬たち」とは「傭兵団」、戦争の専門家・請負人たちのことだ。
シェイクスピアの時代(16世紀末から17世紀半ばまで)、戦争の専門家である軍人としては領主貴族か傭兵しかいなかった。
元来は戦士身分であった貴族のほとんどは、その頃には贅沢な生活に慣れた特権的地主(領主)になっていて、まともに軍事訓練を受けた貴族がいるとすると、その多くが「営利組織(冒険企業)としての傭兵隊」の経営者だった。彼らが雇う一般兵員(歩兵)は、普通の都市住民や農民から切り離された荒くれ者がほとんどだった。
なかにはスイス地方のように、ヨーロッパじゅうに「輸出」する高品質の特産物として傭兵隊を送りだした――域外各地の王権や都市が顧客だった――ところもあった。スイスの傭兵隊は、槍兵としての軍事サーヴィスを提供するため組織され、連邦州民の多くが専門の軍事訓練を受けていた。職業軍人もいたが、平時には農民や都市住民である者どももいた。
彼らのなかにからは、ヴァティカン教皇庁の近衛兵を務める集団も生まれた。フランス王の近衛兵団もスイス兵が主力だった。そのくらいに精強で信頼感が高い傭兵隊だった。
その頃、ヨーロッパにはまともな国民国家はひとつもなく、国家の中央政府が統制できるような常設の陸上軍や海軍はなかった。王権どうしの戦争には、高い報酬と引き換えにヨーロッパじゅうから傭兵を集めなけらばならなった。
そこでは軍務=軍事サーヴィスは商品であって、代金=貨幣報酬と引き換えに取引されるもので、つまりは戦争は完全に商業化されていた。傭兵は武装した商人(あるいは山賊や野盗)でもあった。
軍事活動や戦争は、同時に経済的ビズネスそのものでもあったわけだ。そして、戦争はいまだ「国家の戦争」ではなく「君主たちの戦争」ないしは「商人(傭兵)たちの戦争」であった。
傭兵たちは金目当てに集まってきた荒くれ者たちだったから、王権や貴族(王軍の指揮官)の言うことを聞かない場合も多かった。王権からの報酬が滞ると、たちまち都市や村落の掠奪や破壊、焼き打ち、殺戮を平然とおこなっていた。だから「武装した物乞い」とか「武装した野盗」と呼ばれていた。
兵糧や軍需品の補給体系=兵站組織はまったくなかったから、戦役では指揮官としての貴族や兵員は自前で補給をまかなった。戦場となった地方では傭兵たちは装備や食糧を住民たちへの強制的徴発や掠奪で得ていた。
破壊や殺戮を恐れる都市や農民たちは、傭兵と交渉して高額の金品を差し出して災厄を逃れる――襲撃を回避する――しかなかった。
しかも、いやだからこそ、戦乱のあとには、収入源を失った傭兵、つまり武装した荒くれ者たちによる暴力と破壊の嵐が都市や農村に吹き荒れたものだった。
ただし、君侯・領主たちが地続きで隣り合って対峙するヨーロッパ大陸に比べると、海峡という自然要害で隔てられたブリテンは(市民革命期を除くと)、イングランド王権の貧弱な軍備(ブリテン島では圧倒的な優位)で間に合うほどに「平穏」だったようだ。
その当時(16世紀はじめ)、ヨーロッパ大陸で最大の常設陸軍を保有していたフランス王権でも直属軍隊の兵員の数は――王国の人口1600万前後に対して――わずかに1万5,000あるかないかだった。
というのは、そもそも王権は王国全般にわたる課税や徴税のシステム、すなわち財務官僚組織をもっておらず、支払い能力がなかった。常備兵への給料の支払いは王室の収入だけからまかなわれていた。
王は最有力の領主だが、あくまで1私人として王室の収入を担保に金融商人から融資を受けるか、特権の付与と引き換えに都市団体や商人団体から税や賦課金の納めてもらうしかなかった。
王権はあったが、徴税を取り仕切る官僚=国家組織――国家としての課税・徴税制度――はなかったのだ。ほとんどまったくといっていいほどなかった。
王が戦争のために乏しい王室収入以上の軍備をするためには、身分制評議会を召集して王国の有力身分団体から臨時課税を承認してもらい、それを担保に金融商人からの高利の融資を受けなければならなかった。
そして大きな戦争の後には、多くの場合、勝っても負けても、王権の財政破綻――王室の支払い停止宣言――が続いた。
シェイクスピアは、そういう当時の状況をそのまま(時代考証という発想はまったくない時代だったから)古代ローマ時代の物語にはめ込んだのだ。
⇒傭兵の歴史に関する記事 ⇒ヨーロッパの戦史・軍事史の研究