彼は、ボストン市内のアパートメント(貸し部屋)の屋根裏部屋に1人で暮らしている。天涯孤独の身だ。そのことで、ことさら孤独や寂寥に悩まされることもない。というよりも、「孤独」「寂寥」という精神状態を表す抽象的な観念(
notion )を知らないのだ。
彼は、幼児期に母親に捨てられてしまった。幼い自分から母親が去っていく光景を記憶しているが、チャーリーにとっては、自分にとってはとても大切な若い女性が自分から遠ざかっていくという即物的な意味にか理解できない。だが、母親から「捨てられた」という悲惨な事実――社会的・心理的文脈においてはじめて理解できる事態――の意味を理解していないということだ。
だから反面、そのことによって、彼がことさらに悲しむことはない。
心が挫かれ、打ち砕かれたりするような心情をもたらす判断能力がないのだ。彼の無邪気な顔つきが自然であるのは、そのためでもある。
人間の知性こそが、知性では抑制できない孤独とか寂寥、嫉妬、憤怒などの情緒を引き起こす原因だということだ。
さて、孤児として育ち知的障害を持つチャーリーだが、ボストンというイングランド=ヨーロッパ風の文化が古くから根付いている町のせいか、それなりの形・程度においてコミュニティに受け入れられている。アップル夫人は、屋根裏の安い部屋だが、チャーリーに間貸ししている。そして、彼は製パン工場に雇用されてもいる。
とはいえ、ひどく低い賃金で、あてがわれている仕事は掃除などの雑役だ。もちろんチャーリーは職業と収入による社会的地位の格差についての意識や価値観もないから、卑屈になることもない。その仕事に、チャーリーは一生懸命取り組んでいる。手抜きしたり楽を決め込もうなどという発想が、そもそも彼にはない。とにかく、目の前の仕事に陰日向なく、打ち込んでいる。
だが、知恵おくれのチャーリーは、工場の従業員(全員男性)のなかでも、人間的・文化的に程度の低い連中にとっては、嘲りやからかい、「一段見下ろした憐み」の対象でしかない。経営者や管理者層から見下され酷使されているプロレタリアートは、その鬱屈のはけ口を、さらに下と見なされる「哀れな階層」への蔑視やからかいに求めているのだ。
そういう連中は、そういう連中で、階級構造が歴然としたアメリカ社会のなかでは、そして企業内でも、低いランク、低い労働条件を与えられ、技能も未熟な低賃金労働者として扱われているのだ。自分の社会的地位の低さから来る不満や鬱積を、チャーリーのように、より社会的に弱い立場の人たちを軽蔑したり見下したりして、紛らわせているのだ。
ある日、チャーリーが工場内の床磨きをしていると、従業員の1人から声をかけられた。
「おいチャーリー、きのうあげたプレゼントはどうなったんだい」
「ああ、ありがとう。ぼくのロッカーのなかにしまってあるよ」とチャーリーは返答。
彼が贈られた物とは、イースト菌をたっぷり練りこんだ練り小麦粉=パン生地だった。一晩寝かしておくと、体積は何倍にも膨張する。
作業終了後、チャーリーは、贈り物がどうなっているか期待して、ロッカーの扉を開けた。すると、なかで膨らみ切っていたパン生地が、飛び出すようにあふれ出してきた。大きな塊をチャーリーはどうにか両手で受け止めた。だが、ボニョボニョ、ネバネバのパン生地は、手からあふれ出て、身体中にまとわりついた。ロッカーいっぱいに膨張した生地は、あとからも、続々と、彼に襲いかかってきた。
事態に慌てるチャーリーだが、出来事の因果関係(そして、当然のことながら、贈り手の「悪意」にも)を理解できない。
この様子を、数人の従業員たちが面白おかしく眺めていた。贈り手の男が、問いかけた。
「やあ、チャーリー、どうしたんだい」
チャーリーは、事態に当惑して答えようがない。身体中にまとわりついたパン生地と必死に格闘している。それでも、せっかく贈り物をくれた相手に精一杯の感謝の笑顔を見せようとする。けなげで涙ぐましいシーンだ。
というように、何となく自分の立場の弱さ、天涯孤独の身の上について不安を感じているチャーリーは、世の中に自分を受け入れてもらって、自分の居場所をどうにか確保しようと、周りの人びとには誠意や感謝、笑顔を振り撒いて、毎日を過ごしている。人の悪意を理解できないし、侮蔑やからかいを恨むこともない。
この意味では、チャーリーはEQ(情緒指数)は、すこぶる高いということになる。
そのような無我の境地や悟りの次元を、きわめて高い知性をもつ人びとは長く辛い修行をして達成しようとしているのだが。人間世界とは、じつに皮肉なものだ。