さて、話を戻そう。
チャーリー・ゴードンは、夜間コースで個人教授のキニアン女史から単語の文のスペルや語順などを教えてもらっていた。だが、文法のような抽象的な論理的思考はチャーリーにはできない。それどころか、長い単語や複合母音を含むスペルとか発音との関係が破格的な――たとえば know, night, sign のように発音しない子音(黙字)を含む――単語については、正確には綴れない。
たとえば曜日の名称、あるいは週や月などの日にちの名前は、古代ローマ以来、各地方の文化、ラテン系やゲルマン系の文化の混淆から生まれたので、綴りに対して発音が「変則的」だ。
その典型的な1つは、水曜日( Wednesday :北欧神話の神=ヴォータンのアングル族訛りのウァードゥンに由来する、日本人には「ウェンズデイ」と聞こえる)。
ところが、チャーリーの綴りは、発音に忠実に WENZDAY となる。火曜日は TUSEDAY 。
発音に合わせて、自分なりにつかんだ法則にしたがて綴っているのだ。論理的には、チャーリーの方が正しいのだが。しかも「S」は左右の向きが反対になっている。「R」もそうだ。もっともロシア語のキリル文字にはRの左右逆向き文字(軟母音ヤー)があるが。
アリス・キニアン女史は、チャーリーの知識を増やし学習成果を上げるために、親身になって指導する。はじめは知的障害者への同情、いたわりだったが、しだいに1個の人間=個人として関心を抱くようになる。多分に女性としての「保護本能」というか「母性本能」が含まれているかもしれない。
そして、穏やかで、何度失敗しても挫けずに明朗に努力を続けるチャーリーの人柄=個性に好意をもったせいかもしれない。普通の知性の人ではありえないほどに誠実で高潔なのだから。
ある日、講座が終了してから、アリスはチャーリーの住居を訪れたいと思った。チャーリーに頼むと快く受け入れた。で、いっしょに歩いてチャーリーのアパートメントに行くことになった。
妙齢のとびきりの美女をともなって玄関から入ってきたチャーリーを見て、大家のアップル夫人は驚いた。チャーリーはアリスを先に上階に行かせた。アップル夫人はチャーリーを呼び寄せた。
「チャーリー、すごいじゃない。あんな素敵なガールフレンドを連れてくるなんて!
でも、女性を部屋に遅くまで引きとめてはダメよ。門限を守ってね」
チャーリーはアリスに追いついて、屋根裏の小さな1室に案内した。
部屋のなかには、小さなテイブル1つと、これまた小さな椅子が2脚。そして、小さな黒板。イーゼル(画架)のような三脚に据えつけてある。チャーリーは毎日、そこにその日の曜日名や予定、覚えたての単語を書いている。
チャーリーはアリスに椅子を勧めた。そして、部屋の隅にある水道蛇口からコップに水を入れて、差し出した。
テイブルを挟んで、差し向いに座った2人。アリスは夏の服装で、胸元が開いたドレス。そしてミニスカート。太腿から下が露わになっている。
チャーリーは、アリスを異性として意識したわけではなさそうだが、その視線は、目の前の美しい生き物の姿に釘づけになった。これまで、これほど近くで若い女性と接したことがなかったせいで、幾分は、幼いころ別れた母親への憧憬が含まれているのかも。そして、男性としての生殖本能(性欲)につながる無意識の情意にわずかに刺激が与えられたのかも。
だが、今のチャーリーにとっては、美しいアリスは性的関心の対象ではないようだ。ただ美しい(と脳が感じる)ものに、ひたすら魅了されているだけだ。