人類はその活動領域を全地球に広げ、深海や高山、極地にまで探索や開発の手を広げ、宇宙にさえも手を伸ばそうとしている。
その動きには、地上の生物として、さらに宇宙のなかの生命として「自らが何ものなのか」を知ろうとする知的探求への欲求がある他方で、そういう途方もなく金のかかる活動に資金や資源を投入する必要があることから、利潤追求・営利活動を深く結びついてきた。利潤追求はまた、企業や集団間はもとより、国家間の競争や武力闘争と結びついてきた。
それゆえ、化石燃料の探査と開発、そして核を含む兵器開発と結びつき、環境汚染や生態系破壊という結果をも生み出してきた。
人類にとっての知性の意味を問うなら、当然、そういう問題群をもあつかわなければならないだろう。
そういう傾向は生物としての人類・ヒトの不可避的で内在的な傾向というか行動スタイルであって、それを人類自身がコントロールできないものなのかもしれない。
生物種としての人類全体あるいは社会システムとしてのヒト(とういう生物群)がそうであるとするなら、生物個体としてのヒトの知性もまた、そういう生物種としての集合的・社会的な存在形態に規定されてでき上がってきたものだ。
これまでの考察のなかで見たように、人間の知性には友愛や性愛、嫉妬や憎悪などもろもろの感情が切り離しがたく結びついている。
こうしていくら考えても答えの出ない問題なのだ。が、人の知性だけは「神から与えられた特別なもの」というような思い上がりだけは捨てるべきだと思う。
飽くなき生存欲求にしがみつく態度を突き放して見直してみると、人が老化して死に近づくと脳が劣化して呆ける――認知症を発症する――というのは、自然が与えてくれた「慰め」かもしれない。なかなか覚悟ができない人でも、認知能力や思考力が衰弱すれば、死への怖れはかなり弱まるから。
だが、最近は富や権力を獲得した人びとが高齢化しても、なかなか一線を退かないことも多いようだ。とくに政治家や財界にはこういう手合いが多い。いったいに権力を獲得すると、自分の姿を客観的に眺めることができなくなるらしい。というのも、自分の周囲には権力に靡きへつらう者しか寄りつかないからだ。
そうなると、いよいよ、客観的な(耳が痛い)情報は耳に入らなくなる。老醜がますますはびこる。いつまでも権力や富にしがみついている、その姿こそが認知症とは言わないまでも「痴呆」の顕現ではないか。老残を晒すことへの怖れや羞恥がもはや失われているのかもしれない。
あるいは「しかるべき後継者が見つからない」という理由かもしれない。私は老人が活躍するのを見るのは好きだが、それにはそれなりの舞台があるべきだと思う。
富や権力、地位を阿多人間の権力志向だけが――劣化して呆けた脳の機能のなかでも――持続するということも、傍目に見れば、残酷な境遇=運命だと言える。その醜さに、まとわりつく有象無象は別として、まともな心情の人たちは、嫌悪感を催しているのに。
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