チャーリーの脳機能の上昇は、感情面の不安定さをともないながら、しだいに、知性の面での急激な上昇をもたらすようになった。
アルジャーノンとの「迷路ゲイム」を嫌がっていたチャーリーだったが、まもなく、軽々とアルジャーノンを打ち負かすようになった。やがて、チャーリーは、迷路を見ただけでゴール=結論を見つけてしまうようになった。
急速に理解力や思考力、判断力を高めていくチャーリーを支援し指導するために、アリスは大変な努力を求められた。
というのは、チャーリーの学習・理解の速度がめざましいので、たとえば初等数学が短時日に高等数学、さらには学界で最先端の理論や仮説の領域にまで進んでしまうからだ。学ぶ分野は、このほかに言語学、芸術、政治学、物理学、医学など、人類に知性のあらゆる分野におよんでいった。
アリスが何日もかけて理解して準備した教材を、チャーリーはまたたくまに、ほとんど1回読んだだけでマスターしてしまう。そのうえ、その先までチャーリーは方法論や仮説を構築していってしまうようになった。
そこで、アリスは、ニーマーとストラウスに、もはやチャーリーの知的側面でのテューターの役割をやめたいと申し出た。とはいえ、チャーリーとの信頼関係の深さからみて、アリスをチャーリーとのコミュニケイションのキイパースンから外すわけにはいかなくなった。それで、優秀な研究者となったチャーリーの同僚あるいは友人としての役割を担ってもらうことになった。
高度な知性を身につけていくチャーリーではあったが、世の中や人びとについての卓越した観察力・洞察力を持つようになった彼にとっては、むしろ落胆や悲しみ、あるいは皮肉かつ悲壮な気分をもたらすものが多かった。
人間の脳は、発達成長し知性を高めていくと、脳に蓄えられている過去の経験や知識についての記憶を、新たな知的水準や照準、認識枠組にによって解釈・評価し直していくものらしい。チャーリーは、新たに獲得した知的水準において過去の経験の記憶を見直し、新たな意味づけ・位置づけを与えていくようになった。
一番衝撃的だったのは、幼児期にまだ若い母親が彼のもとから離れ去っていった経験だった。今の彼は、それが母親が自分を見捨て遺棄したのだと理解できたからだ。自分は母に捨てられた。その認識は、彼の心をいたく傷つけた。
そして、パン製造工場でのさまざまな経験。たとえば、イースト菌を練り込んだパン生地の「贈り物」。
あの出来事は、従業員のなかの心ない人びとは、知恵遅れのチャーリーを侮蔑し嘲笑い、からかったのだ。底意地の悪い差別。人間社会には、特定の人びとを差別する傾向がある。歪んだ自己肯定の方法だ。
チャーリーの心は人の世の残酷さを知って痛んだ。ことに精神的障害者への差別は、根深く執拗なこと、を。
だが、高い知性と洞察力を備えたチャーリー自身が、今では他人の欠点や欠陥(知的なもの、あるいは性格的なもの)をたちまち見抜いてしまい、それを指摘する立場になってしまった。「上げ足とり」だ。
そういう視野の狭い優越感や自己顕示欲、差別意識を自己抑制し克服し社会性を身につけていくのも、また教育の役割であり知性の業なのだが、それを学ぶには時間がかかる。
チャーリーは自分の心のなかの葛藤や不均衡に悩むことになった。