さて、チャーリーは、ボストン大学の脳・精神科学部門によって開設された知的障害改善プログラムの夜間講座を受けている。このプログラムの指導者は、脳外科医の教授、リチャード・ニーマー博士とアンナ・ストラウス博士だ。そして、チャーリーの知的訓練のために彼を直接指導しているのは、アリス・キニアン女史(大学院生か?)。
アリスは、とびきりの知的な面持ちの美女だ。
アリスは、プログラムの方針にしたがいながらチャーリーの個性に合わせて、彼に文字記号(アルファベット)や単語スペル、初歩の文法を指導している。
■言語教育プログラムに見る脳機能の仕組み■
この映画作品では、チャーリーの教育方法の場面において、言語と脳機能との関係についての当時の科学的知見――D.キイスの知識と見解――を反映させている。
知的障害者のチャーリーだが、社会のなかで生育するにつれて、彼の日常生活を営むために必要な程度の話し言葉、聞き言葉を習得してきた。「音声としての言語」については、学習機能障害を持つ人びとでも、家族や身近な人びととの会話などから、いわば自然成長的に習得する。
動物が、音声=鳴き声によるコミュニケイションを、家族や群れのなかでの生活から、あるいは環境との相互作用から、覚えていくように。このレヴェルの学習は、動物としての人間の脳=知的活動の原基的レヴェルに属するものらしい。
言葉(音声化された単語)と、その言葉が表す「ことがらの意味範囲」をそれなりに習得していく。たとえば、「山」や「森」、「歩く」「食べる」などが表す意味内容を漠然と。
そして、「私は果物を食べる」というように、主語=名詞、動詞、目的語などの語順、すなわち文の仕組みを、無意識に(論理的省察なしに)覚えていく。
ところが、これをひとたび、文字記号=書き言葉の次元に写し取り、組み立てて再生するとなると、それなりに高度な抽象化作用と論理的判断・推論などが必要になる。原基的な知的活動の次元を超えて、抽象的な記号の関係分析や論理的操作などが求められるわけだ。
この2つの次元のあいだに、ホモサピエンスが「人類文明」形成・発展までの長い歴史のなかで経験的に習得し制度化した、とてつもなく高い障壁が存在する。文化と経験がつくりだすものなのだが、それは脳神経細胞の電磁的・化学的相互作用の仕組みにまで達している。
それは、私自身が若い頃、心身障害者の介助ヴォランティアのなかで体験したことからも、如実に体感・体験したものだ。
知的障害者のなかでも、「耳がよくて」、話し言葉については、相当巧みに操作してコミュニケイションできる人びとが、単語の文字を綴ったり、本や新聞(文章)を読んだり、数の観念を理解し「10円+20円=30円」になるということを理解し、応用したりする段になると、まるきり理解できなくなるのだ。
私たちが、社会の教育制度のなかで「当然のように」習得してきたものが、脳の作用にある特性をもつ人びとにとっては、理解や思考、判断できない事柄となるのだ。
文字記号や抽象的なカテゴリーの操作や判断は、脳の内部である特定の作用の仕組み(脳活動の仕組み)の成長と成熟を前提とするのだ。つまりは、特殊な学習・習得に適応しやすい脳機能の偏った発達を。
ところが、発想の前提を組み換えてみよう。
もし、この世界には書籍やコンピュータとかメディア、交通手段などの文明の諸装置がないとしよう。自然林や海洋や河川湖沼のなかで人びとが生き抜かねばならないとしよう。
すると、文明的メディアや文字コード情報にばかり頼る私たちは、滅びゆくだろう。文字を読み書きできない代わりに、音声言語や話し言葉とか、生の経験からの知恵の習得に長じている、チャーリー・ゴードンや知的障害者と呼ばれている人びとが生き残るかもしれない。その可能性の方が高いだろう。
こうして、生存環境のありようを組み換えれば、知的優劣の尺度はひっくり返るかもしれないのだ。
文字情報とか抽象的な観念をめぐる思考や推論、判断に携わる脳機能の仕組みが、かえって生存の邪魔をすることだってあるのだ。