いずれにせよ、マイケルは交渉使節の代表として、デヴァレラやアイアランド会議の了承を待たずに協定=条約に署名した。というわけで、1922年1月、帰国したマイケルを待っていたのは、デヴァレラをはじめとする「協定反対派」の非難の嵐だった。
映画では、デヴァレラは反対派の急先鋒として描かれるが、実際には、悩んだ末に反対派に立ったようだ。
協定の批准をめぐって、ダブリン評議会での論戦が繰り広げられた。賛成派と反対派の勢力は拮抗していた。熾烈な論争の結果、62対57で賛成派が勝利した。思惑違いの結果に、反対派はダブリン会議から離脱した。デヴァレラは議長を辞任した。
マイケルの親友、ハリーはデヴァレラ派についた。マイケルは大きな衝撃を受けた。
そして、決議をめぐって、今度は全住民による投票(レファレンダム)がおこなわれた。ブリテン政府との妥協と自治権をめぐって各地でマイケル率いる賛成派とデヴァレラ率いる反対派の闘争キャンペインが展開された。ここでも、賛成派が勝利した。戦闘のなかで多くの人びとの命が失われ、人びとは疲弊していたから、多くの民衆は平和を求めていたのだ。
こうして、1922年からアイアランド自由国=自治をめぐる協定が発効した。ダブリンには、自由国の中央政府が組織され、マイケルは自治政府の総裁=宰相に就任した。自治政府は、IRAの協定賛成派を中核として国民軍――国軍 National Army :陸軍――を組織した。軍隊に必要な兵器や装備はブリテン政府から提供された。国民軍にはIRAの多数派が結集したという。
しかし、反対派は自治政府に敵対する反乱軍を組織し、武装闘争を開始した。こうして、もとIRAのメンバーどうしが戦い殺し合う悲劇が始まった。
だが、マイケルは反対派への政府軍の武力攻撃を極力回避して、説得のための時間稼ぎをした。というのは、反対派の攻撃は激しかったが、一般民衆を襲撃するものではなかったし、シンボリックな攻撃にとどまっていたからだ。だが、反対派の戦闘はしだいに激化していった。
反対派軍は、ついにダブリンの合同裁判庁舎を占拠して籠城した。マイケルは休戦交渉を求めた。が、反対派の占拠は続いた。反対派は、このほかにも象徴的な場所を占拠して武装蜂起を宣言した。
ところが、痺れを切らせたのはブリテン政府、ウィンストン・チャーチルだった。「アイアランド自由国軍が域内の反乱を鎮圧できなければ、ブリテン軍が直接乗り込んで制圧する」という決定を伝えてきた。そうなれば、ふたたびIRAとブリテン軍との戦争が再現する。それはまた、政治的には「自治政府の統治能力の欠如」ということになり、国内秩序の維持に関してブリテンに全面的に依存するということになる。
マイケルは苦渋の決断をした。IRA反乱派を自由国軍が制圧する、と。マイケルは、軍最高司令官を兼務することにした。
正規軍は合同裁判庁舎を占拠する反乱派に攻撃を加えた。貧弱な武装の反対派が、ブリテンから供給された兵器を装備する正規軍にかなうはずがない。またたくまに反乱派は蹴散らされた。反乱派は結局、ダブリンから駆逐されていった。
政府軍に狩り立てられて傷つき、ダブリンを脱出しようとする反乱派兵員の1人のなかにハリー・ボウランドがいた。コリンズは、ハリーを生きたまま捕虜にして説得しようとしたが、彼は身を隠し、地下道や下水溝を逃げ惑った。そのあげく、若い政府軍兵士に発見され、射殺されてしまった。
つい先日まで最も親しかった仲間のハリーを死なせてしまったマイケルは、ひどい精神的打撃を受けた。もう、これ以上の内戦は無意味だと考えた。
そこで、(デヴァレに届くことを意図して)反乱派にメッセイジを伝えた。
「デヴァレラは、いまでも私のボスだ。彼の提案に従う用意がある」と。