はぐれ者少年少女たちの冒険     目次
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エスパーニャの没落
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エスパーニャの没落

  とはいえ、エスパーニャの植民地帝国の規模については、「話半分」に理解しておいた方が正しい。
  というのも、「日没を見ない植民地帝国」、すなわち地球を一回りするように植民地のネットワークができ上がったのは、1580年代にエスパーニャ連合王国の盟主カスティーリャ王権が、偶然運よくポルトゥガル王国を併合できたために、ポルトゥガルの広大な植民地の支配権も同時に転がり込んできたことから生じた、これまた偶発的な帰結だったからだ。
  ポルトゥガルの王権と有力宮廷貴族たちは、インド洋航路を開拓・確立し、アフリカならびに南アメリカ大陸に広大な植民地・属領をを獲得したのち、何を勘違いしたか、無謀なアフリカ遠征を企てて大失敗してしまった。北アフリカ戦線で王と有力貴族たちがほとんど戦死したため、突然、ポルトゥガル王国の直系王族家門と有力貴族の跡継ぎたちが突然いなくなってしまった。
  政略結婚でポルトゥガル王室と縁戚関係にあるカスティーリャの王室は、この機に乗じて、王位継承者がいなくなったポルトゥガルの宮廷権力(王位)を握ってしまった。こうして、ポルトゥガルはエスパーニャ王国に編合された。
  ところがエスパーニャでは、いくつも――カスティーリャ=レオン王国、アラゴン=カタルーニャ王国、バレンシーア領、ナバーラ=バスコ王国など――の地方の諸王国を統合する仕組みがなかったので、中央宮廷を握るカスティーリャ以外の諸王国は絶えず分立や分裂に走りがちで、王室に楯ついてばかりだった。海外植民地の統治もまた、各地でばらばら、ちぐはぐだった。
  そこに、ポルトゥガル王国と広大な海外植民地が加わってみると、いよいよ統一がとれなくなった。図体だけはでかいが、この図体をひとまとめにする骨格も神経系統もない、各部分がばらばら好き勝手に動く「つぎはぎの帝国」ができ上がった。

  ところが、約半世紀後には深刻な経済危機と財政危機のなかでエスパーニャは分裂し、地方諸王国で反乱が相次ぎ、ポルトゥガルも分離反乱し、独立していった。現地の有力貴族が王権を樹立したのだ。
  それゆえ、17世紀後半以降は、エスパーニャ連合王国の権威はすっかり落ち目になっていた。にもかかわらず、「30年戦争」に巻き込まれていくになった。
  1559年のカトー=カンブレジの講和条約以降、すでにエスパーニャ連合王国のハプスブルク王室とオーストリア王国のハプスブルク王室とは家系的にも政治的にも分離していた。だが、エスパーニャ王権は、オーストリア王権に――プロテスタント派に対するローマカトリック陣営の共同戦線を張ろうと――口説かれて仕方なく神聖ローマ帝国の「30年戦争」に関与した。
  けれども、緒戦の優位に浮かれ、退き際をわきまえずに講和の時期を逃して戦況は泥沼化し、結局のところ、敗色濃厚の局面で戦争を収拾させた。王室財政は深刻な危機に陥り、破産した。
  そして、イベリアは政治的・軍事的に分裂した。アラゴン=カタルーニャ王国は、カスティーリャ王権との連合から離脱した。このときに、エスパーニャという王国は、統一的な国家への途から踏み外れたまま事実上分解した。17世紀末にはエスパーニャ王位を持つカスティーリャ王家は断絶し、フランス王室と親戚のナバーラ王室ブルボン家がエスパーニャ王位を継承した。これによって、エスパーニャはフランス王権の属国のようになった。

  その後もエスパーニャ=カスティーリャとヴァスク(ナバーラ=バスコ)、カタルーニャは国家として統合されることはなかった。そして、ブルボン王家崩壊後、1930年代後半〜末にファランヘ党首フランコが、ナチスドイツの支援を受けて専制独裁レジームを確立し、独立派や民主派が優勢だったヴァスクとカタルーニャを力づくでエスパーニャ王国に統合した。
  フランコ政権は、カタルーニャやヴァスクの独立派や民主派を血生臭い弾圧と恐怖統治で押し潰した。というわけで、EU統合が進捗するまでは、ヴァスク独立派は無差別爆弾などの武力闘争を繰り広げ、カタルーニャは経済危機のたびにエスパーニャからの独立運動を強めることになった。
  その意味では、エスパーニャはいまだに国民国家をなしてはいない。EUの枠組みを接着剤としてかろうじてカタルーニャとヴァスクがカスティーリャ=バレンシーアと連結されているだけなのだ。

  世界経済の状況としては、17世紀の終わりから18世紀のはじめにかけて、エスパーニャとアメリカ大陸との交易システムはネーデルラントやブリテンの艦隊や商人によって蚕食され、浸食されていた。とりわけ、ブリテンの航海諸法体制の圧迫は厳しく、制海権を失って久しいエスパーニャの商船の交易=航海は、違法な犯罪=密貿易ないしは海賊行為と一方的に決めつけられ、駆逐されることになった。

  してみれば、マイキーが見つけた財宝の隠し場所の地図を描いた「エスパーニャの海賊」は、本国王室の支援から見放されて「密貿易」をおこなう商人だったのかもしれない。ところが、彼らは英語圏の歴史書では「残虐非道な海賊・密貿易業者」として描かれることになったのだろう。

  「密貿易」というのも「海賊」というのも、アメリカ大陸沿岸で制海権を握っているイングランド=ブリテン王国の立場からの見方でしかなかったはずだ。エスパーニャの交易船舶は、海洋権力=制海権を失ったために、非合法とされたのだ。
  イングランドの航海諸法からすれば、大西洋やアメリカ大陸とヨーロッパの貿易(物資の運搬)はすべからくブリテンの息のかかった貿易業者か船舶、港湾を利用してしかるべくブリテン当局に納税しなかればならなかった。つまり、海運貿易からの利潤の分配・再分配に必ずブリテンの商業資本ないし国家を参加させるべきものとされていたのだ。
  これに違反して、自由に航海や海運活動をおこなう者は「非合法」の「密貿易」犯罪者、「海賊行為」をはたらく輩というレッテルを貼られたのだ。

  ところが一方で、これを取り締まるブリテン海軍の艦船には、普段は軍務や貿易に加えて私掠活動――つまり強奪――を営んで利益を得ているものが多数あった。ブリテンの武装艦船は、王室に特別の税金を運上すれば、私掠・海賊行為は合法化され、敵対する陣営の商船を自由に襲撃する資格を得ることができたのだ。つまり、海賊活動は、正規の海軍艦隊や貿易商人の日常業務だったのだ。

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