どういうわけか、ちょっとした冒険物語の主人公たちには、「はぐれ者」が多い。とりわけ少年少女の冒険ものでは。事故や災害に遭遇して「世の中からはぐれた気分」になったり、「落ちこぼれ」というレッテルを貼られたりして、自分のアイデンティティを探すために冒険に乗り出すのだろうか。
というよりも、「先進諸国」の現代人類文明は社会を都市化しすぎてしまい、社会生活を隅々まで規格化、規範化しすぎてしまったようだ。一方での較差構造。その結果、とりわけ若い世代に多くの「脱落者」をもたらすようになった。
とりわけ日本では諸個人に集団への帰属や順応を過剰に要求されるため、「不登校」や「引きこもり」などの「適応不全シンドローム」をもたらしている。だが、重箱の隅まで突き回すように規格化・画一化された社会では、適応障害を起こす方がむしろ自然で、順応・適応し続けている多数者に異状があるとも考えられる。
混迷し停滞した社会状況のなかでは、画一的な規矩から逸れたりはみ出した者たちこそ、多数派が陥っている狭い視野から飛び出る新たな視野を生み出すのかもしれない。
今回はスピンアウトあるいはドロップアウトした「はみ出した」少年少女たちの冒険を描いた2つの映画作品を取り上げてみよう。1つ目は『グース』、2つ目は『グーニーズ』。
さて『グース(1996年)』の原題は Fly Away Home 。邦題の「グース」は野生の雁のこと。原題の意味は「生まれ育った故郷を飛び立つ」。
親を失ったカナダガンの幼鳥たちが生まれて初めて挑戦する「渡り」とそれを応援する少女の物語だ。
『グース』は、野生動物の保護や環境保護というテーマを、カナダガンの渡りをめぐる1人の少女とその家族や仲間たちの冒険をつうじて描いた、心温まる物語。
育ての親を失ったカナダガンの幼鳥にとっては、「渡り」はもちろん初めての大冒険だ。というよりも、まず何より飛翔のための基礎的な運動能力を身につけ、長距離の渡りのための編隊飛行の訓練をしなければならない。
ところが幼鳥たちには、飛翔と渡りを訓練してくれる親鳥がいないのだ。つまりは、幼いカナダガンの姉妹兄弟は、人間の乱暴な開発によって親を失ってしまい、「はぐれ者」になってしまったのだ。
そんな幼鳥たちを発見し、親鳥に代わって育ての親になった少女もまた、一緒に暮らしていた母親を交通事故で失った「はぐれ者」だった。少女はカナダガンの幼鳥たちの面倒を親代わりに見て、しかも数千キロメートルの空の大冒険に挑戦することになった。
幼鳥たちにとっても、少女にとっても、生まれて初めて挑んだ「渡り」は大冒険だった。母親を失ってふさぎ込んでいた少女は、幼鳥たちの命を引き受けることで、立ち直っていく。
そういうわけで、「故郷を離れて遥かな旅に飛び立つ」という原題は、カナダガンの渡りだけでなく、母親を亡くして、遠く離れた父親のもとに引き取られ、さらにカナダガンとともにオンタリオからヴァージニアの越冬地まで――約1000キロメートルの距離を――ガンの群を率いて空を飛ぶ少女の大冒険をも意味している。
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