グーニーズの面々が海辺に出ると、行方不明になった子どもたちを捜索していたグーンドックスの人びとと出会った。そのなかには、少年たちの親たちもいた。子どもたちと親たちは再会を抱きあって喜んだ。
一方、悪党フラテリ一家も洞窟から海岸に逃げ出してきた。けれども、彼らは住民たちに見つかり、警察に取り押さえられた。彼らが奪い取った財宝も、当局に押収された。
スロウスはグーニーズを助けた「気は優しくて力持ち」の大男として、歓迎された。
マイキーやチャンク、マウスたちは、昨日の午後からの大冒険を親たちに向かって話した。が、誰も信じてくれなかった。何しろ、普段から嘘や与太話を振りまいてきたグーニーズだ。いきなり大人たちが信じられるはずもない。
マイキーは、財宝を手に入れたのにフラテリ一家に奪われてしまったので、グーンドックに住み続ける権利を買い取ることができなくなったと嘆いた。
しかし、親たちは、「お前たちこそ、私たちの宝物だ。無事に戻って来てよかった」と言って、財宝の話には興味を向けなかった。
そこに強欲張りのカントリークラブのオウナーが現れて、グーンドックスからの立ち退き同意書への署名を求めた。落胆する面々。
ところが、デイタがポケットに詰めていた小袋から大粒の宝石が出てきた。フラテリ一家の目を逃れたものだった。量はわずかだが、大きなエメラルドやサファイア、ダイアモンドで、売れば何百万ドルにもなりそうだ。
というわけで、グーンドックスの人びとは、立ち退き同意書にサインする必要はなくなった。これで、今までどおり、近隣住民がいっしょに暮らすことができる。
大人たちが、普段はほら吹きのグーニーズの面々の冒険団を信じ始めたとき、岬の向こうに古びた帆船の姿が現れた。帆船は風を受けて音もなく外海に向かって航行していく。
こうして、グーニーズの悪ガキたちの宝探しの冒険の物語は終わる。
少年たちの前には次つぎにチャレンジが現れ、彼らはクリアしながらさらに次のチャレンジに立ち向かう。そのなかには海賊伝説もあり、悪者たちとの対決、宝探しの謎解きもある。チャレンジ⇒クリア⇒再チャレンジというサイクルで転がっていく物語は、コンピュータ・ゲイムのようだ。
そのとおり。グーニーズの物語はやがてコンピュータ・ゲイムとなり、世界的にヒットし続けているようだ。
■余談の余談■
『グーニーズ』を観ていると、少年時代にロバート・ルイス・スティーヴンソンの『宝島』を読みふけったことを思い出す。そして、悪ガキたちの冒険ということでは、マーク・トゥエインの『トム・ソーヤー』とか『ハックルベリー・フィン』の物語を懐かしく想い出す。
これらの小説は、高校生になったときに英語版で読んだものだ。物語は、子どもの頃から読んでいるので、かなり細かいところまで記憶しているので、英和辞書なしで、日本語には訳さないで頭のなかで物語の場面や情景を想い浮かべるための訓練として、何度も読んだ。
和訳すると時間がかかり、速読や量読ができないということで限界を感じていたときに、英語を日本語に訳さないで、英語のままで意味や文脈を理解し、イメイジ化する訓練をするべきだという専門家の提案を真に受けて試みてみたのだ。
外国語を読むときに辞書を頻繁にひくことは――私のような勉強嫌いの凡人には――大きなストレスになり、学習意欲を著しく削ぐことになる。そこで辞書なしで読み飛ばす、読み倒す機会は大変大切だと思う。ときには、日本語の学習でそうだったように、文脈から辞書なしで「自然に」意味を理解できるようになることもある。
その専門家によれば、子どもがある発達段階で小説などの物語が好きになり、とにかく読みまくることで、言葉や文章に関するセンスや能力が著しく成長するということだった。私も小学生の頃から読書が好きで、少なくとも毎週1冊は図書館から借りて読むことにしていた。そういう自分の子ども時代の成長過程を振り返ると、その専門家の説は、非常に説得力あるものに感じられた。
それで、高校生(16、17歳前後)の私は、英語の理解度や知性では10歳程度の子ども並みに達するか達しないかだろうから、あまり難しいイディオムや専門語がなさそうな英語版小説――しかもストーリーが頭に入っているもの――を見つけて読み漁る挑戦をしてみた。
こういう訓練や経験は、それ自体で直接に学校教科としての英語の成績に結びつくものではないが、取っつきにくい英語を自分の趣味や好みに近いところから楽しく続けられること、そうすることで英語を身近な生活リズムに組み込むためには役立った。
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