だが、マッキーはしだいに、経営組織としての巨大病院の運営スタイルや病院スタッフ(医師、看護婦、事務職など)の患者への対応姿勢に疑問を感じるようになる。それは、しかし、それまでは、マッキー自身当たり前のこととして振る舞ってきた通常の態度でしかなかったのだが。
立場や視点の転換は、同じ事実・状況をまったく別の角度と価値観から眺めるチャンスを与えてくれる。人の意識や価値観は、まさに「その人の立場」の所産でしかないのだ。なにものからも自由な「物の見方」など、ありはしない。立場は利害の差をもたらし、思考や判断の尺度、価値の尺度を帰結する。
これまでは指導的な医師として勤務していた病院の仕組みのなかに、マッキーは不安を抱く患者の1人として身を置くことになった。するとまず、診断を申し込むための煩雑な書類の記入、それが終わると長い待ち時間。あとどれくらい待たねばならないのか、その長い待ち時間中に患者の容態が変化・悪化することに対して不遜ともいえるほどの無関心…。医師や看護師たちは目先の自分の仕事に追われて、長い待ち時間に憔悴した患者に目を向けることもない。
そして、診断結果への対策=治療方針を示すさいにも、医師は専門家として、1段も2段も高いところから断定気味に話を切り出し進める。治癒の主人公は患者なのに。
そしてそして、ようやく治療に取りかかる祭には、病院は患者に治療への同意書に署名するように求めてくる。病院が患者に対する過失責任の範囲を極力小さい範囲に限定するためだ。事故や誤診などがあっても、病院は経営を守るために、患者への補償をできるだけ切り縮めようとする。
その背後には、病院や医師の事故補償を扱う医療保険・障害保険会社の経営方針がある。「金融資本の論理」とまでは言えなくても、少なくとも「経営(少なくとも経常費用をまかなう)の論理」の優越。免責範囲をできるだけ幅広くとっておこうという立場だ。とくにアメリカでは、些細な瑕疵を取り上げて病院側に巨額の補償を求めようとする弁護士たちが多いから仕方がないのだが。
ジャック・マッキーは、書類への記入を求める看護師たちに苛立ちをぶつけるが、彼らは自分の職責を果たしているだけなのだ。
その一方に、待合室で不安や苦痛に苛まれている患者たちがいる。彼らは、マッキーのように医療現場の専門家ではないから、いっそう状況に対して無知かつ無防備である。