病院の医療スタッフ――医師、看護師、療法技師など――は何のために、誰のためにはたらくのか。患者のためだ。患者の治癒・回復を専門家の立場から支援・補助するためだ。
この目的(医療の本質的な存在理由)のためには、何よりもまず患者を知ることが必要だ。患者を知るとは、病状とか最適な治療法を知ることももちろん大事だが、それを含めて、そもそも患者がどんな身体的・精神的な状態に置かれているかを知ることが第一だ。
心理や精神状態を知り、不安を取り除き、治癒や体力・身体能力の回復に向かう心理・意欲を持てるようにすることが必要だ。
だが、マッキーは自分が患者の立場になったときに、病院での扱いは、まるで不安や心配、焦燥を増幅しかねないものであることを知った。主人公は患者なのに、病院スタッフが主人公で、患者はただひたすら受け身の対象(客体)、あるいは無力の立場でしかないかのように。
そんな患者側の心理を病院スタッフに体験してもらおう。それがスタッフの何よりの研修教育だ。マッキーはそう考えるようになった。
で、ある日、外科の若手スタッフ=トレイニー(トレイニングを受ける立場の人をトレイニーという)たちに研修を受けさせることにした。
マッキーは、インターン医師、若手のレジデンス(研修医)、看護師、療法士たちに病院で患者が検査を受けるときのガウンを着てもらうことにした。下着を全部脱いで、できそこないの薄いワンピースのようなガウンを。
これを着ると、まるで無防備で無力な気分になることを、マッキーは自ら体験した。それは、患者の不安や焦燥を増幅するようなものだった。
これを着て、数時間、検診を待つ立場になってみること、これが研修だった。
着替えたスタッフたちは、すごく心細い気持ちになって、いつまでこれをやるのかと、すがるようにマッキーを見た。マッキーは検査控え室にいるトレイニーたちを見て言った。
「まずは患者の気持ちを知ること、それが研修の手始めだ。私は診療があるから、まとあとで見に来るよ。じゃあ、幸運を(グッドラック)!」
マッキーが出て行くと、ドアは無慈悲に閉まった。
ここで映画はおしまい。
このあとの付け足しの話題は、アメリカの一般庶民にとって医療コスト・リスクが異常に大きくなってしまっている事態について。その最大の理由は、医療保険の欠陥、というよりも一般民衆が加入できる、まともな医療保険制度が欠如していることだ。
1つの国家にとって、一般市民たちが良質な医療サーヴィスを享受して疾病からの早期の効果的な回復をおこない、そして健康を維持することは、世界的な経済競争のなかで健全な労働力を再生産できる条件を確保することになる。
それゆえ、国内住民が良質な医療を受けられないという状況は、長期的に経済活動の衰退をもたらすことになる。つまり、産業の空洞化だ。
だが、国外からより高い生活水準や所得を求めて大量の移民が移住し続ける構造が持続する社会ではどうなのか。アメリカはそういう状態が、すでに200年以上続いているのだ。