ブリテン人にとって、英仏海峡対岸(ヨーロッパ大陸)の戦況は深刻な事態だった。チャーチルは、何年も反ソ連・反社会主義を掲げるヒトラーの大陸での暴虐と増長を許してきた――ソ連への対抗力として利用できると軽く見ていたのだ。そして、事態が深刻になってから打つ手はすべて失敗に帰していた。
そこで、ブリテンから見た戦況を瞥見しておこう。
1939年8月、ドイツはソ連と急遽、不可侵条約を結んでおいて、9月はじめにポーランドに侵攻する。
その直前にブリテンやフランスは、ドイツの脅威に対抗する形でポーランドと軍事同盟を取り結んでいたため、9月3日、ブリテンとフランスはドイツに対して宣戦布告した。ここに第2次世界戦争ヨーロッパ戦線が発生した。
しかし、39年9月27日にポーランドの首都ワルシャワが陥落、11月にはダンツィヒ(グダンスク)が攻略された。ドイツ軍はバルト海一帯に支配を拡大し、デンマルク、ノルウェイに侵攻し翌1940年4月には両国をあっという間に占領支配した。
ドイツ軍の攻勢は西部戦線にも拡大して1940年4月~5月にはベルギー、ネーデルラントに侵略して征服した。 この動きに対して、ブリテンではこの年の5月にウィンストン・チャーチルを首班とする臨時連立内閣を組織して、ノルウェイ戦線やベルギー、ネーデルラント戦線に派兵して、ドイツ軍の膨張を抑えようとした。
しかし、防衛線も兵站も構築できない戦場に派兵するのは最悪の愚策でいずれも失敗して、多くの兵員死傷者を出して敗北し、過酷な撤退に追い込まれた。
ブリテン軍にとってとりわけ悲惨だったのは、40年5~6月、ドーヴァー海峡の対岸ダンケルクからの撤収だった。このとき、ブリテン側は、ドイツ軍にすっかり三方を包囲されダンケルク海岸に追い詰められ、全滅の危機に瀕したブリテン兵員をどうやって救出るすかに頭を悩ませていた。