ところでフォイルは、マーガレットの息子、スタンリーからの事情聴取で、犯行に使われた拳銃がウールトンという宿泊客がバッグに隠し持っていたものであることを突き止めた。そして彼が犯行直後にホテルからいなくなったことも。
宿泊者名簿に書かれたその男のロンドンの住所は偽りだった。しかし、滞在中に彼が自宅に電話した記録が残っていた。フォイルは通話先の電話番号から住所を突き止めて、訪問した。
そこは、ロンドン市街の雑貨屋だった。
フォイルが事情聴取すると、男は本名(ウルフ)を名乗り、拳銃を携行してホワイトフェザー・ホテルに宿泊したことを認めた。銃を持っていったのは、スペンサーを殺すためだったと答えた。
そして、殺意を抱いた理由を説明するために、ウルフはフォイルを二階の寝室に連れていった。その部屋のベッドには、重傷を負った甥のイツァークが臥せっていた。フライデイ・クラブの暴漢たちに襲撃されたのだ。
ドイツに残ったイツァークの両親は強制収容所に送られたという。
ユダヤ教徒――すなわちユダヤ人――であるウルフとしては、このブリテン国内でもゆぢゃ人を迫害・殺戮するナチス国家に同調するファシスト団体が公然と活動していることに焦燥を感じているのだ。
しかしウルフは、ホテルでスペンサーを殺す機会を窺っていたが実行できなかったことを明かした。そして殺人事件の直後にホテルを抜け出そうとして荷物をまとめたときには、バッグのなかの拳銃が紛失していたと語った。
ということは、銃を盗み出した誰かがマーガレットを殺したということだ。もしウルフが犯人ならば、拳銃をホテルの庭に捨てないで、持ち帰って始末したはずだ。
一方、フライデイ・クラブの捜査はもっぱらミルナーが担当していた。ミルナーはスペンサーに事情聴取を試みたが、スペンサーの言い分を一方的に拝聴することになった。
ミルナーはロンドンでの集会参加以来、スペンサーの言い分に共感するものを感じていた。戦地で重傷を負ったミルナーの苦悩をいたわるようなスペンサーの巧妙な言説に惑わされているようだ。
過酷な戦場に赴いて瀕死の重傷を負い、片足を失うという経験を経たミルナーの心はひどい困惑のなかにあった。そういう耗弱した心にファシストの巧妙なレトリックが浸透しやすかったのだ。
スペンサーは反ユダヤ主義思想をミルナーにさらに吹き込もうとしてか、さらに1冊の著書『ユダヤ教長老会議の議定書』を貸した。「読み終えたら送り返してくれたまえ」と言って。
そこには心が傷ついて耗弱した者を操り、利用しようとする冷酷なスペンサーの思惑が潜んでいた。