刑事フォイル第3話 目次
第3話 兵役拒否
兵役拒否者の死
ビール自殺事件の捜査
権威主義者ガスコイン
戦時体制への市民の組織化
イタリア料理店
疎開してきた少年
ガスコーニュ家脅迫事件
少年爆殺事件
名門家系が抱えるトラブル
「軍需工場」の謎
ローレンス射殺事件
ジョウのノート
ブルックスの判事買収
2つの殺人事件の真相
戦時下の悲劇
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戦時下の悲劇

  「刑事フォイル」ドラマシリーズは、戦時体制下の不条理や悲劇を鋭く描き出している。今回の物語でも、そのいくつかが映像となっている。思いつくままに挙げて考察してみよう。

地方疎開
  この物語に出てくる少年ジョウのように、空爆を受け始めたロンドンからは、――約83万の学童、52万の母親と幼児、1万3千人の妊婦、10万の教員、7千人の身体障害者など――合わせて150万人が地方に疎開・避難したという。戦争というものは、人びとの日常生活と家族関係を破壊ないし変形してしまうのだ。

  一方、フォイルの部下=助手、ミルナー巡査部長は、戦場で重傷を負い片足を失ったことから、妻ジェインとの関係がこじれていくことになった。戦争はミルナーの右足を奪っただけではなかった。妻の愛情を奪い、夫婦の絆を壊してしまったのだ。

戦争と排外的ナショナリズム
  人は自らが属す集団のために、集団的なアイデンティティを防衛するために戦う。その点は、類人猿の集団どうしの争いと変わらない。人類はその程度の、というかサルと同じ行動原理や感情に支配される生物の一種でしかない。
  「愛国心」という感情ないしイデオロギーは、その程度のもの、あるいはその延長線上のものでしかない、と私は考える。
  だがそのさい人類は文明装置を介在させて争う。
  戦う相手、敵なるものを決定する根拠となるのは、民族や国民、国籍、国境など、歴史的・人為的に構築された特殊な境界区分でしかない。
  ところが、戦争状態のなかでは、人びとは戦意を高揚するために、そういう境界区分をことさら誇張して、ときには同じ市民社会でともに生活してきた「隣人」に敵意や憎悪をぶつけようとする。
  きのうまでは仲の良い隣人であった外国出身者を排外・排斥し迫害するようになる。


  政治的・軍事的に多数の諸国家に分割された世界システムにおいては、住民は国境や国籍性ないし民族という障壁や境界によって分断されている。
  そういうシステムのなかで諸国家のあいだの軍事的敵対としての戦争が発生すると、それぞれの国内では敵対する国家や国民への反感や排他的な感情、憎悪が高まり、自己増殖していくことになる。
  このメカニズムは、多数の国民国家が並存するという構造が存在する限り、避けられない現象となる。
  そして、それは数々の悲惨な事件をもたらすことになる。

イタリア系移民への反感と攻撃
  この物語の終盤では、1940年6月10日にドイツと同盟するイタリアがブリテンに宣戦布告したことから、ブリテン国内で起きた悲劇を描いている。
  まず、ロンドンのイーストエンドでの暴動――これはイタリア系移民が多い街区で、イタリアの参戦に憤慨した一般民衆が暴動を起こして商店や住宅を破壊し放火したというもの。
  暴徒の多くは労働者など下層得民衆だったという。
  街区のイタリア系住民も貧困や政治的迫害から逃れてロンドンに移住してきた人びとで、異国での貧しく厳しい暮らしに耐えていた。そして、きのうまではイングランド人の良き隣人として平穏に暮らしていた人びとだった。

  そしてヘイスティングズでも、フォイルの友人、カールロ・ルチアーノのイタリアン・レストランが深夜に激高した暴徒に襲撃されて放火され、破壊されてしまった。
  建物は炎上し、就寝していたカールロは逃げ遅れて焼死してしまった。息子のアントーニオはかろうじて逃げ出すことができた。
  だが、彼は焼け落ちたレストランを見つめ、父親の焼死を嘆き悲しんだ。サマンサの慰めの言葉も通じないほど憔悴してしまった。

良心的兵役拒否の論理
  反戦平和思想から兵役を拒否する立場の論理は、ごく単純化すれば以下のようになるだろう。
  戦場に送られた若者たちは、自らが属す国家のために、故郷に暮らす家族を守るために、そして自分が生き延びるために、敵兵を殺すことを強制される。
  ところが、刑事犯罪としての殺人は、自らの意思で、つまり自分の欲得にもとづき自由意思による選択行動として他者を殺害することだ。
  反戦・平和主義者たちは、国家によって命じられた殺戮であっても、銃の引き金を引き、砲弾を発射するのは、自分の意思行為として他者の生命を奪おうとすることだと批判する。
  だが、侵略者に対して武器を取る場合には、倫理的にどう判断すべきなのだろうか。

  こんな疑問を抱いたのは、ドラマのなかの1シーンを見たからだ。
  それは、反戦平和主義者のテオ・ハウワードが、兵役を志願して共同農場を離れようとして、鉄道駅でフローレンスに別れを告げるシーンだ。
  彼はフローレンスの夫、デイヴィッド・ビールを――兵役拒否請願を退け警察の収監房に収容して――自殺に追い込んだガスコイン判事への憤慨を募らせ、判事を殺そうとして拳銃をつかんで深夜の街に飛び出していった。
  だが結局、夜の闇のなかを彷徨ったあげくに帰宅したのだった。
  けれども、テオは自分の憎悪や憤激が、大事な仲間や思想・信条を守るためという理由・動機で殺意に変わるのだという体験したのだ。つまり、自分には自らを守るために銃を取って敵を殺そうとする意思能力があることに気がついた。
  そこで、ナチス・ドイツと戦場で銃を取って戦うために兵役に志願したのだ。

  人は自らが属する社会のなかで、そういう意思傾向や心理、価値観などを抱くように育まれ人格形成される存在なのだ。
  このドラマは、こういうことについて考えるような問題提起を突きつけてくる。

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