山猫 目次
原題と原作について
見どころ
あらすじ
滅びの美学
滅びゆく者
ヴィスコンティの歴史観=人生観
シチリアの歴史
1860年5月
ガリバルディのシチリア遠征
侯爵の浮気心
タンクレーディ
未来を夢見る者
リソルジメントの現実
避暑地ドンナフガータで
新たなエリート
タンクレーディの恋と打算
投票結果の欺瞞
タンクレーディの婚約
カロージェロの評判
タンクレーディの凱旋
タンクレーディの野心
おお、ヴィスコンティ!
滅びの美学
上院議員就任の拒絶
夜会の舞踏会
黄昏を見つめて
《山猫》へのオマージュ
シチリア史の特異性

滅びの美学

  主人公サリーナ公爵の滅びの美学や退廃的精神には、監督自身の心情や立場が投影されているかに見える。
  映画作品の監督、ルキーノ・ヴィスコンティは、20世紀の初頭、ミラーノの大富豪貴族の家門に生まれた。父親はグラッツァーノ侯爵位とロナーテ・ポッツォーロ伯爵位を保有する有力者だった。ルキーノ自身は、このうちロナーテ・ポッツォーロ伯位を継承した。
  ファシストが支配するイタリアの戦時体制のもとで、反ファシズム運動をつうじてイタリア共産党PCIに入党した。PCIは当時、イタリアでは「自由の旗手」で、旧弊な因習から離脱して自由を手に入れたいと願う芸術家が数多く加盟していた。ルキーノは、独特のネオレアリスモとマルクシスモ、そして有力貴族家系育ちならではのディレッタンティスモ――耽美主義――の担い手だった。
  彼は、大富豪の貴族という家庭環境のなかで、それこそ「超国宝級」ともいえる美術品や工芸品、生活用品に囲まれて育った。私たちとは、根っから、芸術や歴史を見る目が違うのだ。しかも、マルクシスモの担い手として、自らが属する家系や階級を滅びゆくべき存在と見なしていた。
  そのヴィスコンティが、おのれの世界観や歴史観、人生観を投影するかのように撮影編集したのが、この作品だ。
  自らの出自(家柄と生い立ち)を半ばは皮肉な目で突き放しながらも、家門の富や優越がもたらした特権を気負いもなく利用している。そして、自分の生い立った家門(つまり有力貴族であること)は、歴史の流れのなかで「滅びゆくべきもの」と見ている。

滅びゆく者

  物語の主人公、イル・プリンチペ・ドン・ファブリーツィオは、自分の富と特権を存分に堪能し、きわめて高度な知性と歴史観を身につけている。にもかかわらず、浪費と退廃に身をゆだねる。だから、家門の所領である農地=土地を債務のかたに切り売りしている。しかも、そういう家政経営が遠からず破綻するであろうことも見越している。
  そこに、1860年、サヴォイア家(サルデーニャ公にしてピエモンテ王)の軍事顧問となったガリバルディ将軍が、イタリアの国民的統合をめざし、地方分立を続けようとするシチリア=ナーポリ王国を征服しようとしてシチリアに遠征してきた。シチリア貴族の支配特権・優越の後ろ盾となってきたブルボン(ボルボーネ)王家の権威が崩壊していく様を、公爵はただ拱手傍観していた。
  というのも、ボルボーネ王権は、シチリアの身分秩序、貴族身分の支配と優越をもたらすレジーム枠組みの最大の支柱でありながら、他方で、シチリア貴族に対してナーポリの王権への名目上の臣従・服属を執拗に要求する存在だったからだ。
  言ってみれば、王家とシチリアの貴族たちとの関係は、土台が崩れ始めて傾きかかった塔が互いに相手に倒れかかりながら支え合っているような構造だった。外部からの一撃で均衡が崩れれば、もろともに瓦解する状態にあった。愛憎相半ばするが、依存し合うしかない関係だったのだ。

  シチリアの貴族たちは、王権の軍事力の担い手の役割を放棄してからすでに長い時が経過していた。かれらは、解体し始めて久しい古くからの因習と慣例によりすがって、その地位と富、権力を保持してきた。貴族層の権力と富は、彼ら自身の能動的な統治活動とか権力行使によってではもはやなく、彼ら自身と民衆が旧弊な慣習と因習に呪縛されていることによって、つまり惰性と慣性(つまりは怠惰と委縮と諦念)によって、支えられていたにすぎない。
  貴族層は、農民階級から高負担の地代を搾取しながら、王国の課税のほとんどを免れていた。王権が課税基盤を把握するために(土地所有への課税の原簿となりうる)土地台帳を整備しようとする動きを、貴族層は絶えず潰してきた。それはまた、貴族自身が自らの所領経営を会計学の手法で計数的に把握し、資産運営を近代化し、経済的に統合・再編するチャンスをみずから壊してきたということでもあった。
  貴族層は、表向きの権威や威信を装飾するための浪費や乱費、放漫経営を続け、膨らむ借金のかたに土地を切り売りしてきた。貴族が手放した土地を買い取ったのは、上昇志向の強い成り上がりのブルジョワ層だった。それゆえ、シチリアには大貴族層をしのぐ土地所有規模を誇る庶民出身の大地主層が出現してきていた。
  とはいえ、彼らは、旧来からの貴族層の行動スタイルや生活スタイル、権威の装飾術に憧れ、酔いしれていた。
  王室財政の出所は、貧しい農民たちとパレルモなどの都市住民からの税の取り立てによるものだった。屋台骨がすっかり腐ってはいたが、王権国家(いや国家の体をなしてはいなかった)の財政負担は、貴族を通り越して、農民と都市住民の上にのしかかっていた。

  そうした貴族や王家の寄生的で腐朽した体質を、ドン・ファブリーツィオは、いずれ歴史の流れのなかで打ち砕かれるべきものと見なしていた。
  だが、現今の貴族たちが滅び去っても、シチリアの農民層や都市住民への支配や収奪は持続するはずだ、と見ていた。新たな支配階級(ブルジョワ地主)が貴族に取って代わる(あるいは貴族たちがブルジョワ経営者に転身する)だけだ、と。
  そして、シチリアの支配層のさらに上には、北イタリアや北西ヨーロッパのブルジョワ階級が君臨しているのだ。

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