シチリアを含む南イタリアでは、15世紀から17世紀にかけて、ことあるごとにフランス王権とエスパーニャ王権とが争奪戦を繰り広げ、結局、エスパーニャ王室の領地となった。ところが、エスパーニャ王室ハプスブルク家は1700年に男系継承者が断絶して、ナバーラ(ナヴァル)王室のブルボン家がエスパーニャ王位を受け継いだ。そして、エスパーニャ王の領地シチリアの王位も受け継いだ。
15世紀からこのかた、王権はさまざまな統治政策あるいは無策を繰り出したが、ついにナーポリ王国とシチリア王国について王権の実効的支配を確立できなかった。
参考⇒エスパーニャ王権の南イタリア進出 ⇒フランス王権の南イタリア進出 ⇒イタリア戦争
宗主がフランス王であれ、エスパーニャ王であれ、誰の治世においても、王位・王権とは名ばかりで、両王国の地方領主貴族たちはさまざまな同盟に離合集散しながら、王室の権威に楯突き、王の権威や権力を切り崩して独立性を保持し続けた。
領主たちは自分の所領や資産への王権による課税を拒否した。それゆえ、王室財政は逼迫し、疲弊するばかりだった。もちろん、王が要求する軍務(軍役奉仕)も拒否した。
そのうえ、王位継承をめぐるゴタゴタとか、幼若な王の時代とかには、地方貴族たちはこぞって王の特権を切り取り奪っていった。たとえば、王領地の地代収取権とか都市への課税権とか、市場開設・課税権、関税収取権とかを。
こうした王の権利や権力の簒奪にともなって、有力領主たちは、より高い身分タイトル(爵位や権威)を王室に要求して認めさせることになった。もちろん、公爵には公爵なりの、侯爵には侯爵なりの、伯爵にはそれなりの、爵位にともなう栄誉や特権の保有や行使がともなうことになる。出費もそれに比例する。権威の誇示には金がかかるのだ。
ことにエスパーニャ系貴族は、本国での行動スタイル(地方有力貴族が王権に掣肘を加え、王権から自立したがる。好き勝手に爵位を主張するとか・・・)を、はなから地方分散的なシチリアに持ち込んだ。
というわけで、シチリアには、雨後のタケノコのように、有力貴族が簇生することになった。
こうして、地方貴族が王権の権力を無視する地方分立的で分散的なレジームが固定化されてきたのだ。
こんな風だから、シチリアでは致富を達成するような政策は施されず、生産性の高い農業や産業が育成しなかった。だから、王室財政も貴族たちの家政も概して貧弱だった。財政逼迫に窮した王と貴族たちは、野盗・山賊まがいの軍を編成して(泥棒稼ぎの場合には貴族たちは王の軍務召請に馳せ参じた)、ナ―ポリの北にある教皇領とか近隣の侯国や都市に攻め入って、混乱に乗じてしたたかに財貨を掠奪したこともあった。
教皇の都、ローマも何度か被害にあっている。
マフィアのボスたちの利権獲得をめぐる結託あるいは利権争いまがいのことが、500年も前から、南イタリアとシチリアにはあったのだ。
一方で、貴族層の瀟洒な城館・別荘建築による見栄の張り合いの場、奢侈と浪費のアリーナとしての巨大都市、たとえばパレルモ(17世紀に人口20万超)のような都市が、貧しい農村の上に君臨するようになっていた。
さて、ドン・ファブリーツィオは、冷徹な歴史観と高い教養によって、こんなシチリアの悲劇的な歴史をも知悉し、シニカルに構えていた。奢侈と贅沢をきわめながら、公爵は、自らがよって立つ貴族権力の基盤を、突き放して眺めていた。
ドン・ファブリーツィオは、若い頃には名門大学で学び学位を取得し、イタリア諸都市を遊学して回り、公爵位を継承するためにシチリアに戻ってからも、イタリアはもとよりヨーロッパ各地の教授連や科学者たちと連絡を取り合い、歴史学や自然科学の研究を続けてきた知識人だった。おそらく、シチリアでは並ぶ者のいない科学者、歴史家だった。