ところで、私にとって《山猫》のなかで一番印象に残るシーンは、新生イタリア王国の特使としてサリーナ公爵を上院議員とすべく説得しに来たシュヴァレイ顧問官を迎えた公爵が、シチリアを案内しながら、シチリアをイタリア国民のなかに統合する困難さを指摘する場面である。
「・・・シチリアは2500年以上にわたって、ここを支配し統合しようとした多数の輝かしい文明の軛のもとで呻吟し、その文明が課す重みに耐えてきました。・・・疑い深く猜疑心に満ちたシチリアは、それらの文明が要求した苛斂誅求に耐えてきました・・・しかし、いかなる文明、帝国も・・・ついにシチリアを自分たちのレジームに統合し同化させることには失敗しました。・・・」と侯爵は語る。その意味するところは次のとおりだ。
紀元前8世紀にはじまるギリシアの支配と植民地化、ローマとカルタゴとの長い戦争が残した傷跡、そしてローマ帝国の膨張と没落、ノルマン騎士団の支配、エスパーニャ王権とフランス王権の支配権争い、そして19世紀のボルボーネ王権による統治。さらに、ナポレオン政争の頃から地中海の制海権を握ったブリテンによるヘゲモニーの浸透・・・
シチリアはいつの時代にも属領化され植民地化され、島の外部の市場(王室や都市)に農産物の供給を強制させられるレジームによって屈服させられてきたように見える。13世紀以降も、島内の領主貴族による支配の上には北イタリア諸都市の商業資本の支配あるいはフランス王権、あるいはエスパーニャ王権、あるいはブリテン王権(これと結託したイングランド資本)などの権力が重層的に覆いかぶさっていた歴史。
重層的な支配は、重層的な搾取と収奪の仕組みをともなっていた。
シチリアの農民が栽培する農産物の大半は、彼らが享受・消費するためのものではない。高品質の小麦やオレンジやオリーヴ油、ワインの大半は遠距離市場・世界市場向けの商品だった。零細農民や小作農民の過酷な労働の見返りは、生きるためにかつかつの食糧、文盲、卑屈な態度と憎悪だった。
こうした社会構造を変えようと努力した王権や支配者(文明の代理人)はいなかった。名目だけのレジームや王権の名前はそれこそ何度も変わったが、シチリアの社会構造を組み換えようとする権力は存在したことがなかった。
このたびピエモンテの王権がシチリアをイタリア王国という国民国家に統合しようとしているが、その試みは法制度や政治機構の外被(名称)だけにとどまるだろう。上層建築は変わるが、基層構造は変わらずに持続するだろう。
そういうことを、ファブリーツィオは大領主としての立場から見ているわけだ。
その見かたは当たっていた。リソルジメントから1世紀以上続いて、基本的には1970年代まで持続していた。
また、サリーナ公爵が王国議会に席を占めようとしなかった選択も正しかった。
1860年代から半世紀以上、代表制機関としてのイタリア王国議会はただの形骸にとどまっていて、ほとんどまともに機能しなかった。つまり、各地のエリート層を国民的枠組みのなかに統合する試みは挫折し続けていた。ようやく機能し始めてからわずか10年くらいで、ムッソリーニのファシスト政権に移行してしまった。
危機のなかでファシスト政権の抑圧的支配によって、各地方ごとに分裂気味のイタリアは「いびつな形」でかろうじて国民的統合を保つことになった。
地方ごとの閉鎖性や分立を残したまま、各地方の権力者・エリートを利害取引で抱き込み、対立点を覆い隠す統治手法が、1980年代まで延々と続いたのだ。
という歴史を一瞥すると、あのシーンのサリーナ公爵のシニカルで悲観的な見通し、評価の重みが胸にこたえるのだ。
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