8月を迎えると、サリーナ公爵家の人びとは、昼間には気温が毎日40℃を超えて耐えがたい暑さになるパレルモを離れて、高原地帯の村、ドンナフガータに避暑に出かけるのが恒例だった。ドンナフガータ村では、サリーナ家は最大の地主だった。そして、サリーナ家は、そこに広壮な城館(パラッツォ)を保有していた。
ドン・ファブリーツィオは、この有力貴族としての住居の移転――避暑地への引っ越し――が、「革命」の最中でもあることとて、新たな現地政府からは認められないのではないかと危惧したが、何の支障もなく旅行・移動の許可がおりた。もっとも、タンクレーディが巧みに手を回して旅行許可願の申請手続きをおこなったからでもあった。
サリーナ公爵家の一行は、ドンナフガータの村民から盛大に歓迎された。というのも、旧弊な慣習と規範意識のなかで生き続ける農民たちは、自分たちの生活が続けられるのは、慈悲深いご領主様の恩恵によるものと信じていいたからだ。たしかに、サリーナ公爵がこの村に課す賦課金とか小作農民や借地農に請求する地代はことのほか低額で、あまつさえ地代の徴収を忘れる年さえあるのだから、ドン・ファブリーツィオは慈悲深き「殿様」だった。
しかも、歓迎のしるしに農民たちが野菜や肉用うの畜獣や鶏や卵を公爵に進呈しようものなら、地代の何倍もの謝礼が渡されるのだった。
だから、ドン・ファブリーツィオが毎年夏に村に訪れる日には、村長や村役人、修道院長、主だった村人たちが村の中心部広場に集合して、盛大に歓迎式典を催すのだった。
その日、公爵歓迎の式典を差配し歓迎の演説をおこなったのは、村長、ドン・カロージェロ・セダーラだった。カロージェロは貧相な小男だが、この地方ではサリーナ公爵に次ぐ大地主だった。商才にたけた男で、手広く商業や金融業を営み、資産を蓄えた。とりわけ浪費家の貴族地主たちの土地が債務の片に差し押さえられ競売にかけられると、必ず買い取るという評判だった。
あと数年もすれば、サリーナ公爵をしのぐ最大の地主になると思われた。