それを見たドン・ファブリーツィオは羨望とともに満足を覚えた。だが、これから世の中の上昇階段を昇りつめようとする2人の若さを思い知ることは、すなわち自分の老いを深く意識することになった。
公爵は深い疲れを覚えて、雑踏を離れて図書室(書斎)に向かい、椅子に腰をおろして休憩した。長い時間、彼はとりとめのない思いに耽っていた。
すると、そこにタンクレーディとアンジェーリカがやって来た。2人は、今夜のデビューを仕立てたサリーナ公爵にお礼を言おうと探していたのだ。アンジェーリカは、ファブリーツィオに踊りのパートナーを申し込んだ。
公爵としてはかなり疲れを覚えていたが、これもアンジェーリカの引き立て役の務めと思い、大ホールまで戻った。
しかし、ファブリーツィオはアンジェーリカの「マズルカを」という希望を断り、「そんな速い踊りは私には無理だよ。ワルツにしてくれ」と頼んだ。楽団はワルツを演奏し始めた。ファブリーツィオは見事なステップでアンジェーリカをリードした。だが、長くは踊らず、1小節でタンクレーディに彼女を引き渡した。
そして、2人にお礼を述べてから、立食テイブルとソーファの列のほうに1人で歩いていった。食欲がわかないので、小さなソーファの1つに腰をおろした。
すると、近くのテイブルの会話が聞こえてきた。会話の中心人物は、パッラヴィチーノ大佐(王軍連隊長でたぶん伯爵)だった。大佐は、アスプロモンテの戦闘で王権の敵に回ったガリバルディを捕虜にしたときの思い出を語っていた。
「わたしは司令部からガリバルディを捕縛するよう命令を受けていたんです。それで、彼の軍と対峙したとき、もはや暴徒と略奪者の集団に化してしまった兵員のなかで、やはりガリバルディ自身も、もうこんな戦いをやめようと覚悟していたのでしょうな。
革命の英雄が、粗暴な荒くれ者たちの首領になってしまったのですからな。
だから脚に銃弾を受けたガリバルディは、無抵抗で王軍の捕虜になりました。そのとき、捕縛を告げた私に向けた彼の顔つきは、感謝の念に満ちていましたよ。・・・」
このあとの場面では、ドン・ファブリーツィオは大佐に反論して立ち去る。
しかし、原作では、公爵はパッラヴィチーノ大佐に深い共感を抱くことになっている。旧い貴族制の没落と、民衆の蜂起や抵抗が結局、新しい寡頭制支配レジームの構築のための塵払いにすぎなかったことに対して皮肉な目を向けていることが、彼自身と同じものの見方をしているということで。
このシーンの描き方の原作との違いは、たぶんヴィスコンティの政治的立場(マルクシスモ)の反映ではないかと思う。粗暴で無秩序な暴動になっていき新たな支配階級によって利用されたあげく鎮圧されてしまったという結果になろうと、民衆の蜂起・反乱は旧い秩序を解体したことで、イタリアの国民形成には決定的な意味があったという評価なのかもしれない。
一時的ではあれ、ガリバルディが率いた運動に民衆は自分たちの利害や意思を仮託することができたのだから。
そういう立場を公爵に代弁させたのではないか。
ともあれ、舞踏会は明け方まで続き、参会者たちは夜が明けると、疲労困憊して帰りの馬車に乗って館を出ていった。
ファブリーツィオは、邸宅までの途中で馬車を降りて歩いた。
それがラストシーンだ。