原題は英語版では The Leopard 、イタリア語版では Il Gattopardo 。ともに意味は「オオヤマネコ、山猫、サーヴァル」。1963年作品。
原作は、 Giuseppe Tomasi di Lampedusa, Il Gattopardo, 1958 (ジゥゼッペ・トーマシ・ディ・ランペドゥーサ著『オオヤマネコ』、1958年)。邦訳として小林惺訳『山猫』(岩波文庫、2008年)がある。
19世紀後半、それまで5世紀以上ものあいだ分裂し、政治的停滞のなかにあったイタリアの国民的統合が進み始め、変革の波が押し寄せていたシチリアが舞台。物語の中心となっているのは、老境を迎えて世の中に幻滅し、自らの滅びのときを待つ有力貴族、サリーナ公爵ドン・ファブリーツィオの生きざま。これをバート・ランカスターが演じる。
この物語のなかで見事なコントラストを見せるのは、老いを強く感じ始めたサリーナ公爵ドン・ファブリーツィオの「滅びの美学」と、公爵の甥で古い由緒を誇るファルコーネ公爵家の御曹司タンクレーディの燃えるような野心だ。アラン・ドゥロン演じる美青年タンクレーディは、古い貴族が地方を支配する時代が終わったことを知り、新たな国民国家のレジームのなかでエリートとして生き延び、成り上がろうとする強い上昇志向を見せつける。
さりながら、老公爵は、甥の上昇志向に大きな期待を込めている。新たな時代の担い手は「かくあるべき」と。
老公爵が代表するものは「滅びゆく者の美学(矜持)」であり、タンクレーディが代表するものはトラスフォルミスモ( trasformismo
:転身、変わり身の巧みさ)である。
富裕な有力貴族家門の御曹司として生まれ育ったルキーノ・ヴィスコンティでなければ描き出せない世界観と人生観が描かれている。物語の筋そのものよりも、人物の行動スタイルや発想パターン、そして邸宅や美術品などの背景・備品が、雄弁に歴史の厚み・奥行きを物語る。
ところで、「山猫」というのは、サリーナ公爵家の紋章、家紋で、それゆえドン・ファブリーツィオは「山猫公爵」とも呼ばれていた。
それまで多数の都市国家や小侯国に分裂していたイタリアでは19世紀後半、幾度もの挫折を経ながらリソルジメント(国民的統合)が進んだ。
1860年には、ガリバルディに率いられたピエモンテ王軍がシチリアに上陸して、統合を拒むナーポリ=シチリア王軍を打ちのめした。所領や支配地ごとに分立していた領主貴族たちは、深刻な財政危機に直面しながらイタリアという国民的レジームのなかに組み込まれることになった。特権的地位を守るために、新たな国民国家のエリートへと転身するのか、滅びのときを待つのか、選択が迫られた。
ところが結局のところ、ガリバルディのシチリア遠征と征服によっても、この島の権力や秩序の基本構造を転換されることはなかった。
ただし、シチリアはその辺境的・従属的な経済構造を抱えたまま、イタリアという国民国家に統合され、シチリアの支配層はイタリアのレジームに編合されることになった。そして、成り上がりの新興ブルジョワジーが台頭して貴族と融合し、部分的に旧来の支配層に取って代われるような政治的・社会的構造をもたらした。
タンクレーディは、この新たな環境に順応してより高い地位をめざす行動スタイルを選び取った。一方、ファブリーツィオは、新しいレジームには距離を置き始めた。
新生イタリア王国の政府は、議会に各地のエリートを結集させようとした。サリーナ公爵も上院に議席を与えられ、政策形成で枢要な役割を期待されることになった。だが、ファブリーツィオは、政府の要請を丁重に断った。自分が旧い発想と行動スタイルに染まっていることを自覚していたからだった。しかも、彼は、イタリア国家の行方について、かなり悲観的・シニカルになっていたからだ。だが、タンクレーディは、新たなレジームのなかでエリートとしてのし上がろうという野心に満ちていた。
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