ヴィスコンティは、じつにユニークなコムニスト、自由主義者として、歴史と社会を眺めている。
進歩と変革、束縛からの解放を強く希求しながら、支配=従属関係や格差の秩序(とそれに順応する価値観)から人びとが逃れられない状況に置かれていることを、敏感に感じ取っている。
一方で階級格差や差別を批判して活動する男性コムニストたちが、家庭内や組織のなかで、たとえば妻や恋人たちに対して家父長的態度で振る舞い(妻を家事労働で束縛して平然としている)、男性優位の価値観に束縛される姿を目にしていた。
そして、自分が「進歩的で革命的だ」と信じている人びとに限って、自分の権威や欲望に都合のよい因習や慣習、価値観に無自覚にすがりついていて、自己批判の精神に欠けることを。
つまりは、革命主義者=コムニストたちも、まさに現存の社会関係の産物であって、その社会の仕組みがもたらす醜悪さや卑俗さのなかにどっぷりつかっていることを。
だが、それは必然的で不可避的な事情であって、ことさら嘆いたり、嫌悪すべき事柄ではない。人間の社会とはそういうものだ、という独特の歴史観と人生観の根拠となっている。それが、ルキーノのユニークなネオレアリスモを支えているように見える。
貴族の旧来の特権と優越を支えてきた社会の仕組み=レジームが没落しようとしているとき、その変化に身をすり寄せることを潔しとしない。「地位を保ちたければ、自ら変わり身を見せることだ」という格言に背を向けて、巧みな変わり身(巧妙な立ち回り)で自己保身をはかることを拒むドン・ファブリーツィオの姿勢に、自分の歴史観と人生観を投影しているとしか思えない。われ滅びゆくものなり、と。
ところで、この物語では、数多くの有力貴族が(会話中に出てくる名前も含めて)登場する。
あの大して広くもないシチリア島に、10を超える公爵、侯爵や、それを超えそうな数の伯爵が存在していたようだ。下級貴族ともなれば、それこそ掃いて捨てるほどいたのだろう。
公爵(イル・プリンチペ)とは、本来、王子として生まれた者すなわち王家の直系や親王の家門であり、侯爵とは本来かなりの数の部族からなる侯国の王であり、伯爵とは(侯爵に対抗して)王の代官として地方に派遣された大領主であるか、または公侯爵の親族ないし高位の家臣で、王の代官に対峙しうる有力な地方領主である。
となれば、数十にあまる公・侯・伯が支配する所領の大きさとしては、標準のヨーロッパの基準ならば、シチリア島の何十倍もの面積――フランス王国くらいの広さ――が必要となる。だが、彼らは、ほとんどシチリア内部で所領を分け合っている。大して肥沃でもなければ、生産性が高いわけでもない辺境の島なのに。
ということは、フランスやブリテンであれば、最下級のバロン(あるいはエスクワイア)でしかないような領主・地主たちが、ご大層に、公侯爵や伯爵の資格を持ち、名乗り、ふんぞり返っているわけだ。
いったい、どういうことか。